Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.7.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


「数字上の誤謬」

その2

幸田成友著(1873〜1954)

『歴史地理 第28巻第1号』日本歴史地理研究会 1916.7 所載

◇禁転載◇


  管理人註
  

以上の事に就いては、委しくは拙著「大塩平八郎」に載せたが、此頃不 図新井白石が数字上に間違をしてゐる事を発見した、五事略の中の本朝 実化通用事略に慶長六年より宝永五年までに海外に輸出せし金銀銅の数 が載つて居る、その中金は六百拾九万弐千八百両余とあるが、之は七百 拾九万弐千八百両余で無ければならぬ、白石は正保五年より宝永五年迄 六十一年間、長崎一所より外国へ入りて金の数を二百三十九万七千六百 両余なるを知り、慶長六年より正保四年までの輸出金高は計り知るべか らざるも、先づ右金額の二倍なるべしとし、両口を加へたりといへば、 二百三十九万七千六百両の三倍即ち七百拾九万弐千八百両余となるなり、 七百拾九万を六百拾九万としてあるのは、国書刊行会本の新井白石全集 のみならず、以前白石社で活版にした五事略にも六百十九万とあるし、 又五事略の写本で維新以前のもの数本を見たが、皆誤つて居る、白石の 自筆本を見ぬ内は、必ずしも白石自身が誤つたとはいへぬが、後の人の 気の付かないのも可笑しな話だ、伝手に申しますが白石が五事略に載せ た正保五年以後宝永五年迄に長崎一所より輸出せし金銀の額と、宝文三 年より寛永五年までの銅の輸出額とは、正確なる材料に拠つたものと思 はれる、さりながら慶長六年より正保四年迄の金銀輸出額を右の二倍と し、又慶長六年より寛文二年迄の銅輸出額を右の一倍としたは、何様い ふ拠所があつての推定か、一向不明瞭で、従つて数字は的にならぬもの といふべきです。 同じ所に寛文三年より宝永五年迄の銅の輸出額、壱億壱万壱千四百四拾 九万八千七百斤余、又慶長六年より宝永五年迄の銅の輸出額、弐億二万 弐千八百九拾九万七千五百斤余とある、此二つの数字は記載法に就いて 疑がある、十万、百万或は千万を以て一億と称ふることもあれど、普通 万々を以て一億とする、然るに一億の下に一万々があり、二億の下に二 万々があつては、甚だ可笑しい、之も今迄何人も疑はぬのみか、此数字 を其儘引用せられた方もある、京都の内田博士の考に、之は白石が壱億 壱万壱千四百四十九万云々弐億弐万弐千八百九拾九万云々といふ風に、 こゝに用ふる億は万々の億であると註記せられたのを、転写の際に大字 に書き壱億壱万云々二億二万云々といふが如き、不思議なる位取となり しならんとあるが、如何にも御道理な解釈と思ふ。 学者の著述にも時として数字上の誤謬はある、縦令学者の誤にあらずと もするも、其著述を転写する際に誤謬は免れ難い、独り私人の著述のみ ならず、官府の書類にも、徳川時代では時として間違がある、自分は先 年来御買米及御用金の事を調べてゐるが、元来が官府から町人に命じて 米を買はせたり、金銀を差出さしむるのであるから、其数字は私人の記 述に於て、誤謬脱落の多かるべきは、想像し得らるゝ、大阪では文化十 年并天保十四年の用金に就いては、出金者の氏名・町所・金額を記した 写本類が沢山あるが、冊毎に多少の相違がある、殊に文化十年の分は、 前年買入れた買米高と新規の出金額と、両方を合して今回の用金高に充 てたのであるから、勘定は頗る面倒で、正確なる数字は未だ手に入らぬ、 文化撰要類集があつたらばと思ふがこれは今日僅に一冊を存する計りで 残三十九冊は既に亡んで仕舞つた、但し、天保の分は幸に天保撰要類集 十七に、御用金一件に関し、大阪町奉行久須美佐渡守より老中水野越前 守に上つた内密言上書や、大阪に出張した羽倉外記の書状、勘定奉行戸 川播磨守外四名、江戸町奉行鳥居甲斐守鍋島内匠頭の書類などが数通あ る、撰要集は江戸町奉行所で庁中常々与力三人同心六人を置いて、其編 纂に従事せしめたといふ、天保撰要集は其一で、東京府引継本として今 帝国図書館に保管せられて居る、さすれば官府の書類と申しても差支な い、然るに之を読んで行くと、久須美佐渡守より水野越前守に宛てた書 は三通の中、第二通の分に、甚しい数字上の誤謬がある、即ち九月十七 日に御用金を命じたる町人共より請書を取りたる金高左の如しとして、  総金高百八万四千九百六拾六三分余    内   金九拾八百拾四両三分    大坂之分   金弐万八千七百弐拾七両壱分 兵庫之分   金五万四百拾六両弐分余   西宮之分   金七万八百八両壱分余    堺之分 とある、内訳の第一行九拾八百拾四両は確に間違であるが、本文のでは 間違であると知る丈で之を正すことが出来ぬ、然るに偶然撰要集同様東 京府引継本の中に、市中取締類集と題する数十冊の書類中、遠国伺の部 五冊中第四に、御用金一件に関し、天保撰要類集に在るものと、順序は 相違すれど、同一の書類を収録して居るのを発見した、そこで両書を対 照すると九拾八百拾四両は正に九拾八万拾四両の間違であると分つたが、 それにしても内訳を合すると拾壱万二千九百六十六両三分余と為つて、 四万五千両の相違がある、其処で尚能く考へて見ると、西宮の五万とい ふのが怪しい、天保十四年の調によると、兵庫の人口は二万千六十人、 西宮は八千七拾五人、即ち五分の一である、さすれば兵庫の用金が二万 八千何両といふに対し、西宮の用金が五万四百何両では釣合がとれぬ、 五万は五千の誤では無からうか、五千とするとピッタリ惣金高に合ふ、 之に違ひ無いと判定致しました、天保撰要類集といひ、市中取締類集と いひ、共に町奉行所で撰んで、町奉行所に備付けた原本であるにも拘ら ず、尚斯様な間違がある、私人の撰述殊にそれが幾回か転写を経た時に、 数字の間違は極めて生じ易いといふべきである。 自分の僅な経験によると、校正の際数字の校正程無味乾燥なものは無い、 文章の方であると、読みながら前後の文章が続かぬことなども気がつく が、数字をたゞ読み下しては、原本の通といふ丈で、原本に誤謬があつ ても、少しも気が付かぬ、幸に惣高や差引残高があれば、加減して見れ ば分かるやうなものゝ、其所まで校正に骨を折る人もあるまい、偶々あ つた所で所謂縁の下の力持である、又加減しても見ても惣高や残高と合 はぬ時は、途方にくれる、前記の様に、内訳の項数が三四項に止れば、 何とか想像もつくが、二十項三十項の多きに達しては仕方が無い、数字 は元来正確なる観念を与ふべき為であるが、かゝる場合には総高又は残 高も内訳も信用し兼ねることゝなる、例へば故勝伯編輯の吹塵録第五冊 に、文化甲子年諸国人数調と題する有益なる資料がある、一国毎に総人 口と男女の内訳とを示し、又朱字にて石高と御料は私領か或は御料私領 入交とかいふ肩書がある、其総計は諸国石高合二千五百七十八万六千八 百九十五石余、人数都合二千五百六十二万千九百五十七人、内千三百四 十二万七千二百四十九人男、千二百十九万四千七百八人女とあるが、附 言に「此国高本文を以てすれば、合高にあたり難し、又人数にも計算あ たらざる所あり、いづれに誤写ありや、知るべからず、すべて原文に従 ふ」とあり、折角の好材料ではあるが、内訳が正しいか、総高が正しい か、イザといふ場合には危くて材料に使へぬ、之と同様に役に立たぬ数 字は、内訳だけを示して総高又は残高の記して無い分で、内訳の数字に 誤謬ありや否やを断定することが出来ぬ、而も此類は中々多い、 かく述べ来ると、我等は数字に出会ふ毎に、一々算盤玉に当つて見ねば ならぬ、たゞ何書に幾許とあるから、之に拠るといふやうな不徹底な事 では、後人を誤るといふことを覚悟して、所謂縁の下の力持を為ねばな らないこといふ結論に達します。(終)

内田銀蔵 (1872-1919) か

  


「数字上の誤謬」その1

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