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自分は先年大塩平八郎(中斎)に関する材料を蒐めてゐる中に、不図中斎
が数字上の誤謬を為して居ることを発見した、即ち中斎は父母の歿年を
間違へたのみならず、自分が辞職した年を間違へて両様に記して居るの
で、如何にも不思議に感ぜられた。
中斎が自著洗心洞箚記を佐藤一斎に呈した時に、添へた手紙の中に、父
母は僕の七歳の時に倶に歿すとあるが、大阪天満東寺町成正寺にある父
敬高の墓石に刻した銘文には寛政十一年巳未夏五月十有一日卒と有り、
又蓮興寺にある過去帳を見ると、母は寛政十二申年年九月廿日に死んで
居る、敬高の墓誌は中斎自身の筆であるから、間違のあらう筈も無く、
又過去帳に誤謬があらうとも思はれぬ、中斎が一斎に与へた手紙に、父
母倶に僕七歳の時に歿すとあるのは、文章の勢で左様に書いたといへば、
それ迄であるが、公平に考へて見れば、不思議な間違といふべきだ。
同じ手紙の中に、僕が決然として致仕帰休したる時は、年三十又八なり
とあるが、洗心洞詩文に載つてゐる転職の詩並序によると、余が職の微
賤なるに拘らず余が進言計画する所を採用せられし町奉行高井山城守実
徳公と進退を共にする次第にして、余が齡は則ち三十有七なりとある、
尤も此序には「公年垂七十、其秋(文政十三年庚寅)七月上養病之疏、而
未だ、嗚呼余齡則三十有七」とあるから、実徳が養病の疏を上りし時中
斎三十七、辞職許可となりしを其翌年、則ち中斎三十八際の時と解すれ
ば、前の手紙と衝突はせぬが、それでは曲解といふべきで、事実の上に
於て、実徳の免職となつたは同年十一月、中斎の辞職も是歳である、さ
すれば中斎は自分の辞職の年を間違へたのである、奇怪な現象といふべ
きだ、中斎が一歳に与へた手紙は中斎自身の手で、伊勢大廟に其刻本が
献ぜられて居るから、三十八といふ数字に間違無いものとして、洗心洞
詩文にある辞職の詩並序は、何から集められたか、出所が判然せぬ、中
斎自筆のものには三十有八とあるのを、転写する際に三十有七と間違つ
たのであらうといへば、それ迄であるが、前にも言ふた通り、中斎は父
母の歿年を間違へてゐる位だから、転写の際の誤ではなくて、原文に既
に間違があつたものらしく思はれる。
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幸田著『大塩平八郎』
その8
『大塩平八郎』
その172
辞職の詩並序
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