Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動は果して義挙か 」 その1

幸田成友著(1873〜1954)

大阪毎日新聞社 1908.10.5

◇禁転載◇


大塩騒動は果して義挙か (一)

                   ●●●●●●●●                    幸田文学士の考証  ●●●●●● ◎大阪の名物男 たる大塩平八郎の事蹟を書いたものは実に幾百と数へ切れぬ ほどだが其大多数は謀叛記とか騒動記とかいふべき種類に属したもので内容も 亦千篇一律申合せたやうに大袈裟なことが書いてある、例へば天満水滸伝でも 大潮問答、大塩騒動記などいふやうな書物でも総て読んで行くとドウも腑に落                          あや ちぬ所ばかりが出て来る、のみならず伝説の出所が頗る恠しい、然るに偶然に も比頃に至つて  ●●●●●●●● ◎重要視すべき珍書 が手に入つたゝめに漸く中斎に対する多少の見当を附                      ●●● ●●●● けることが出来るやうに成つた、第一の書物は評定所吟味伺書といつて当時の                 あつ 大塩裁判に関する官辺の一件書類を聚めたもので確実なことは無論のこと、第               なか\/ 二は当時淡路町の討手に向ふて却々の功績を著はした玉造組の与力阪本源之助 といふ人が洗心洞に出入した時分から騒動当時及其後に至る間の見聞を臆面な         ●●●● く随録したもので咬菜秘記といふ写本ものだが源之助其号を咬菜軒と言つて文 武の嗜み深く高直剛健毫も飾らず当時の側面評を試みて居る所など実に信頼す べき材料であるが同人は功によつて其後に幕府の評定衆に挙げられたほどで現 在の海軍中将男爵阪本俊篤氏は其胤族であるいふことである、第三は同人の筆              ●●● ●● ●●● になつた公儀への報告書たる玉造組働前明細書でこれが咬菜秘記と正に表裏を                              ●●● ●●● なして居るものだが、比等の書と騒動当時に総年寄を勤めて居た今井勘兵衛と いふ  ●●●●●●●●●●●●● ◎老人から直接に聞いた実見談 とを綜合したものが此考証談の主材をなし         さて て居るのである、却説大塩平八郎が寛政六年阿波国美馬郡脇新村の三宅といふ 家で生れて寛政十二年に大塩の養子となつたといふ説は殆ど天下の公認して居 る所だが実は其の出所が甚恠しいので更に根拠を見出すことが出来ぬ、元来当                                  なか\/ 時の与力同心なんどいふものゝ威張つたことは非常なもので養子縁組など却却 容易のものでなかつたのみならず此の譜代の臣下と外様の一孤児とが縁組をす るなどは到底思ひもよらぬ所である、殊に洗心洞剳記に添へて佐藤一斎に送つ た大塩の自叙伝とも目することの出来る書翰の中に  ●●●●●●●●● ◎我祖は大塩浪右衛門 と云つて勤王の武士であつたといふやうなことを熱 心に主張して居るのが如何にしても養子らしくないばかりか其の他の秘記を考         ●●●● ●●●●● ●● ●●● 証して僕は断然平八郎は大塩佐兵衛の実子であるといふ説を主張するものであ る、ソレから井上哲次郎先生の説によると平八郎は幼年の砌に江戸へ上つて林                     わか 家に留学したやうにあるがこれも殆ど出所が釈らぬ、当時の職員録(役人かが み)を調べると文化十年に二十一歳で常町廻になつて居るが十三年版のものに は大塩の名前が見えないで文政三年版になると目安役、同十三年には吟味役ま でに進んで居る、これで見ると文化十三年即平八郎廿四歳の時一年だけ大阪に                               そうこう 居なかつたとも推論することが出来るが一廉の与力ともあるものが轄c一年位 の間に東京留学をするやうな手筈が出来やうとも思へねば、井上博士の所謂幼 年の頃といふのにも当つて居ないのが恠しい、


「大塩騒動は果して義挙か」目次/その2

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