Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩騒動は果して義挙か』 その2

幸田成友著(1873〜1954)

大阪毎日新聞社 1908

◇禁転載◇


大塩騒動は果して義挙か (二)

                   ●●●●●●●●                    幸田文学士の考証  ●●●●●● ◎次に大塩と林家 の関係を云々するものがあるけれど、これは師弟関係で なくて、林家が大阪の富豪から金を借りるといふ話を聞て名家の所為とも覚え ずと憤慨して自分が金を都合したといふやうな話に起因して居るものであるか ら先づ\/江戸遊学は虚伝として差支なからう、次に平八郎が吟味役中の三大 功績と呼ばれて居るのは堕落僧の成敗、弓削野新右衛門の詰腹切、切支丹婆豊 田貢の逮捕であるが貢といふ婆が基督教であつたやうなことは更に記録上に残 つて居ない、勿論こんなことは瑣細なことのやうではあるが当時の  ●●●●●●●●●● ◎誤伝を推測する一資料 として調べて見るも無益ではないので、諸種の吟味 書類などを見たが矢張り切支丹とは平八郎も報告して居ない、恐らくオマヂナ イの類に属したものを事々しく言ひなして居たものだらうと思ふ、大塩騒動の 原因に就いては救世済民の目的に出でたものといひ、或は大阪城に拠つて大に 為す所あらんとしたるものと言ひ、種々様々になつては居るが自分の考へる所   ●●●● ●●● ●●● ●●● ●●● ●●●● ●●●●● では其んなに計画を立てゝ掛つた仕事では無い、畢竟するに  ●●●●●●  ●●●● ●●●● ●● ●●●● ●●● ◎癇癪玉の破裂 したのに過ぎないものであらうと思ふのである、然し其の 癇癪玉の破裂した原因は主として跡部山城との確執にあつたことは咬菜秘記に も録されて居る、然し大塩が跡部から金を借らうとして出来なかった鬱憤を散                                   ずるためだなどゝいふのは取るに足らぬ臆説であること申すまでもない、偖て           なにか 其の就任当時から何彼に就けて衝突しつゝあつた対跡部の憤慨心と、常に口に                     けうけん せる奉行政治の内幕攻撃の鉾先が端なくも大凶歉の義捐勧誘の沮碍に際して大 反動を実現することゝなつたものである、だから其の動機の善悪は別として大 塩騒動といふものは根からアツケなく出来てあつたもの、モー歩進んで言へば  ●●●●● ◎一種の狂的 であつたやうにも思はれる、そのアツケなかりし大塩戦とい ふものを調べて見ると実際は更に\/アツケないものであつたので、計画の齟 齬が戦争記の内容を淋しくして仕舞つた所もあらうが塩軍と官軍との会戦とい へば天満で一ケ所、内淡路町で一ケ所、戦死者は砲手一名、卒三名、合計四名 といふだけである、左もそうづ大塩の軍卒と言へば実に百余の青年武士と烏合 の農民等に過ぎなかつたので、この小数の者を率ゐて堂堂公儀の軍勢に対抗す るのは何としても大望あるものゝ仕事でない、然し夫れ相応の戦争準備は無論 なかるべからざるもので、其の第一準備としては彼の凶年に於ける施行々為を                                 たか 挙げねばならぬことになつた、天保の凶歉其の極に達して米価いよいよ貴く、 公庫固く鎖されて窮民死に瀕するの光景を目撃したる渠平八郎は遂に其の蔵書 を売て六百余両を貧民に施与したのは人の知る所であるが元来施行といふこと には公辺への手続を要するものであるにも関はらず平八郎は無届でもつて行つ        ●●● ●●● ●● たのみならず、天満辺出火の節は  ●● ●●●●●●● ●●● ●●●● ●●● ●●●● ●● ●●●●● ◎必ず駈けつけて呉れ といふ代償的の契約をして居た事も慥であるし、其 の施米の配布区域を調べて見ると主に今の東成郡一帯から中河内あたりを主と                            すく して其ほかにチビ\゛/と固つて居るのが広く天下の民衆を済ふといふ看板に 相応して居ないのと、其の配布区域には必ず親近の者が居るやうに成つて居る などを併せ考ると決して一と通りの慈善ではない、即ち遺憾ながら蒼生のため に義兵を挙げたものといふ結論を排斥せねばならなくなる、殊に吟味書や唆菜 秘記其他に散見する大塩平八郎の性癖や人相の模様などから考へても比の種の                   癇癪騒ぎをやり兼ない人であることは略ぼ想像されるのである。


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