Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩騒動は果して義挙か』 その4

幸田成友著(1873〜1954)

大阪毎日新聞社 1908

◇禁転載◇


大塩騒動は果して義挙か (四)

                   ●●●●●●●●                    幸田文学士の考証   ●●●●●● ◎兜山に上つて 大塩が再挙を計つたなんどゝいふことも亦後人の附会した ことに過ぎぬ、勿論戦争は小さくても騒動は非常なもので、平八郎の行方不明 最後までも頼みにして居た比渡辺の住民が騒動の当日遅参して大塩勢が浪花橋              たゞ になつた間は実に風声鶴涙も啻ならず、ソラ大塩が摩耶山に現れた、ソラ平八        くだ 郎が六甲山から降つて来たといふやうな噂にワッ\/と騒いだもので、或日上                         たか 荷船が天満橋の橋坑に突き当てて顛覆させたのに人の集つて居るのを城の上か ら見て、ソーラ大塩が京橋口へ押寄せたぞ、出陣の用意々々と周章狼狽したは なしもある程で大塩戦争を買被つて居る人々から兜山再挙説が附会されたのも 無理でなからう   ●●●●●● ◎大塩の挙兵 は上述の如く一に私憤を晴らすためだと結論するにしても夫 れがために実際大塩が立派な陽明学者であつたことは否まれぬ、比事は共著書 を見ても、其交友を見ても明かである、又私憤を作るに至つた原因といふもの も詮ずるところ其主義主張の衝突に胚胎して居るものであるのだから彼は   ●●●●●●●●●● ◎個人としては矢張り偉い ところもあれば尊敬すべき点もある、且や其家                               常の有様に就て父子夫婦間の秩序正しく礼譲を重んじて居たのは熟く熟く感心 せられるので、其  ●●●●●●●● ◎子の妻を姦した といふ説もあるが決して信用の出来ない話だ、それは実 際家塾に出入した人の実見談によりても明な所で、死に至るまで格之助が平八 郎に対する至孝謙譲の態度から推しても反証を挙ることが出来る、元来大塩平      ●● 八郎の妾のゆうといふ女は北の新地の芸妓であつたのを般若寺村の名主忠兵衛                                  ●● の妹分にして入家したもので格之助の妻として迎へたのは忠兵衛の実子のみね である、若し平八郎にして説の如く破倫を敢てしたものとしては最後までも忠 兵衛が生死を共にして忠実に立働いたのが不思議に感ぜられるし、咬菜秘記中 の一統調べに「平八郎妾尼ゆう、格之助妾みね、格之助実子弓太郎」と記して                  さと 居るのを見ても愈以つて説の誤れるを暁ることが出来る、  ●●●●● ◎大塩の最後 と言へば平八郎親子の敗戦後の逃げ方がチヨツと面白い、流 石は町廻りを勤めて居たほどあつて身の匿し方がなか\/巧みだつた、そも                             \/北から出て段々西へ\/と来て、淡略町が最後の敗軍と定まつた時に反 対に  ●●●●●●●   なか\/ ◎東の方へ逃げた のが却々の妙計で、火事騒ぎの荷物を担ひでドシ\/上 町の方へ上つて、それから八軒屋へ出て、船に乗つて日の暮れるまで大川を上 下して居た、火事場に舟の上下するのは通常のことで誰も恠まぬのを幸に悠々 と協議を凝らして、翌日から  ●●●● ◎大和落ち をやつたらしい、夫れは済之助や一味の死骸が発見された場所 からして立証せられるので遂に靭の油掛町へ落ついてからの最後は先づ御承知 の通りである、此大塩劇中にあつて特に戯曲的光彩を発揮して居る  ●●●●●● ◎宇津木の諫争 に就ても多少の誤伝があると思ふ、といふのは宇津木が九 州から帰りに下部を連れて大塩邸へ寄つたとあるけれど宇津木の小倉辺へ行つ たのは大分以前のことで、又大塩邸へ来た時に連れたのは下部でなくて彦根の 医師の息子の良之進といふ子であつたとの事である、尚芝居のやうに鎗で仕止 めたのではなく、刀で後からバツサリやツたものらしいといふ事も検屍書で立 証される 、(完)  (文責記者にあり)


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