Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩騒動は果して義挙か』 その3

幸田成友著(1873〜1954)

大阪毎日新聞社 1908

◇禁転載◇


大塩騒動は果して義挙か (三)

                   ●●●●●●●●                    幸田文学士の考証   ●●●●●● ◎平八郎の癇癪 が実に比の騒動を断行せしめたほど猛烈であつたことは余 り不思議な事でもない、世事を概論痛駁しながらバリ\/と伊勢蝦の頭を喰つ た位のことはありさうな話である、現に今井翁の談にも癇癪まぎれに屡々塾生 を鞭うつたさうだ、其の癇癪に聯関して余程注意すべき事ネは「一朝大阪城下 に事ありといふ場合に貴殿は何とするか」などいふ問題を提出して対手の返答 が生緩いか気に喰はぬが最期烈火の如く怒る、罵倒する、遂には絶交するとま でに立至るのだが其難題たる「城下の一大事」に対する平八郎の処分案なるも のが   ●●●●● ◎穢多懐柔策 に存して居たことも注意せねばならぬ、此事は阪本の咬菜秘 記にも明記して居るところで施行米の配布にも渡辺方面(穢多部落)は非常に 重視して居た「若し穢多を普通の人間に取立て尚其上に武士にも仕立てゝやら うものなら必ず子孫の名誉のために水火を恐れず身命を惜まぬ健気の働きをさ              つね せることが出来る」とはかれ渠の毎に口にして居た信条である、されば挙兵の 最後までも頼みにして居た比渡辺の住民が騒動の当日遅参して大塩勢が浪花橋 まで来た時にやう\/駈付けたといふ始末であつたゝめに平八郎は火のやうに なつて叱り飛ばし幾ら詑びても聴かぬので渡辺勢はトー\/辟易して却て官軍 の方へ行つて仕舞つたのはいよ\/以ての大失敗である、シカシ奉行のために は意想外の拾ひものであつたのだ、夫は兎も角もとして斯る懐柔策から考へて も大塩の施行行為は慈善的なものでなくて戦争準備的のものであつたと言はね ばならぬやうになる、それに就いて彼のやかましい   ●●●●●● ◎新春の感嘆詩 たる新衣着得祝新年、羹餅味濃易下咽、忽思城中多菜色、 一身温袍愧于天の吟を挙げて、これでも救世済民の素志に出でたものでないか と反問する人もあらうが、平八郎固より陽明学者として素養あり常に正道を説 き天下民衆を憂ふるの心を持つて居たのだから新春雑煮を喰ひながら窮民を憫 むの詩を作つたことも不思議ではないが、此詩が天保八年の新春吟だといふこ とは僕の所見の範囲に於ては更に明記されたものがないのでちやうど程よく饑 饉の年へ結びつけたものらしく思はれるのである、先づ何にもせよ以上の特殊 部落民を当てにして居た位の準備で以てマサカに持久の大策を建てゝ居たとは 考へられないのだ


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