今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜
大阪では鴻池屋善右衛門外五人を買米に関する取扱人とし、右
五人の外百三十余人の豪商を町奉行所に招き、銘々の資産に応じ、
一二千石乃至四千石の買米高を封書で差出せ、買米は切手米でも
正米でも宜しい、切手米ならば切手の謄本・一石の代価・総額の
計算書、正米ならば一石の価格・買入総額・売渡人の氏名・米の
名目等を届出でよ、必ず自分の出入屋敷以外の蔵米を買へ、買米
が終つたらその米切手を資金の調達に融通して宜しい、買入米は
享保十四年米でも十五年米でも宜しいと命じた。享保十六年の六
月のことで、それで米価は一時上つたが、これは無理な相場であ
る。米そのものが無くなつたのではなくて、一時姿をかくしたま
での事であるから、一度幕府の干渉の手がゆるめば米が出て来る。
米が出て来れば相場の下落することは確かであるから、一向捗々
しく進まない。江戸で買米の事に与つてゐる高間伝兵衛を大阪へ
遣り、大阪金蔵の金で買上米をさせて見たり、また買米を申付く
べき人数を二百人も増して見たが、どうも巧く行かぬ。そこで買
米の仕法を一変し、個人に買米を命じないで町々に命ずることと
した。即ち町々の買入米高を示し、町年寄をして町内の住民に公
平に賦課せしめる方法をとり、今迄既に買米をした者は買入高を
随意に売却して、新に今度の買入高を負担することとし、また町
年寄の買入高は町内の町人で公平に定めしめ、つまり何人も若干
の負担をせねばならぬやうにし、買入時期を十一月十五日に限り、
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その買米は飯米その他の潰米とし、一切他に転売してはならぬ、
若し割当額の二分一内外を買入れ、それで資金が欠乏したら、一
旦買入れた米を蔵出し、これを質入して残額購入の資に当てゝよ
いといふのであつた。これは米そのものが潰されて仕舞つて、二
度と出て来ないのであるから、米価はめきめきと上つた。年末広
島米四十二匁五分といふ相場を出した。
この年の十二月に大阪堂島米仲買株が許可された。これを第一
回として、十七年四月二十年七月と前後三回に、合計千三百とい
ふ米仲買株が許可になつた。株数について色々説があるが、大体
千三百といふ数は動きません。米方年行司五人で仲買全部を取締
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る。別に米方両替(遣来両替)株が五十株許可せられた。
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