Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.12.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その124

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第七 米 (2)管理人註

延転買の許 可 江戸に於け る米価引上 手段

 第二は延転買の許可である。大阪で一番最初に出来た米相場所 は享保十年十二月江戸材木町紀伊国屋源兵衛外二人に設立を許可 した御為替米会所である。これは廻米を切手で売渡し、その正米 を蔵屋敷に預り、必要の時に渡す仕組で、米仲買はすべてこの会 所で売買を行ひ、買取つたものは米一石に対して会所に銀二分の 口銭を出し、それを三人の願人と仲買全体とで分配する仕組であ つた。これならば正米の取引に過ぎないが、果してさうであつた か。この会所が一年(享保十年十二月より十一年十二月迄)で止 むと、今度は願人が中川清三郎外二人となつて矢張り同様な会所 が出来た。堂島の米仲買は最初から会所には反対で幾度か町奉行 所にその廃止を出願し、紀伊国屋の会所が止んでやれ安心と思ふ と、また新会所が出来たので、惣代数名を江戸へ派遣し、勘定奉 行や老中に出願したが願意が通らぬ。町奉行の大岡越前守へ訴へ 漸く廃止の目的を達した。中川等の会所は享保十二年二月に始ま り十三年十二月で中止となつたが、更に十五年五月になつて江戸 の町人冬木善大郎等五名の米会所が北浜に出来たので、同じやう な陳情を繰返した。同年八月幕府は冬木善大郎の会所の廃止を告 げ、それと同時に大阪米商の儀は従来の仕方によつて流相場商 (延売買商)を勝手次第にせよ、五十軒の両替屋は従来のやうに 売買双方から出す敷銀の保管差引勘定等を行ひ、随分手広に商売 せよ、畢竟米相場宜敷成候ための事であるから、その趣を以て心 次第行へと命じた。して見れば幕府が延売買を許可した目的は米 相場を釣上げるためであつたのである。  江戸でも大阪同様米価釣上に対する種々の手段が講ぜられた。 江戸で許可せられた会所の名前を米延売切手売相場会所といひ、 願人は皆川町一丁目六兵衛外五組のもので、許可の趣が江戸市中 へ発布されたのが享保十五年の七月である。この会所の趣旨は正 米を買入れて切手売とし、供給を減じて米価を釣上げるといふ申 立である。実は帳合米の売買を行ひたいが、許可を得る方法がな いので、大阪の例に倣つて前記の会所を出願したので、許可にな つてから実際帳合米商を行つて居たため、同年の末に閉鎖されて しまつた。かくして帳合米商は堂島一ケ所に限られた。  上方筋から江戸へ来る米は本米問屋(高間伝兵衛外八人)以外 で引受けてはならぬといふ法令が享保十四年十五年に出てゐる。              クダ こゝに米問屋といふのは後の下米問屋と同一で、米問屋以外に 下米を引請けることを禁じたのは、矢張り米穀が江戸に溢れる のを防がうとする意味である。この外幕府は諸大名に令し、江戸 大阪廻米高を近年の廻米高より余分になすべからず、また一度に 全部を廻送してはならぬといつて廻米高を制限したり、高間伝兵 衛を大阪に派して米を買はせて見たり、色々やつた後で、とう\/ 享保十六年(一七三一)に江戸大阪で買米を行はせた。江戸は十 八万両、大阪は六十万石といふ大数であつた。

 


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