米価引上に
対する堂島
市場の答申
両替屋仲間
の答申
文字金銀
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享保十五六年の頃、大阪町奉行から堂島市場并びに両替屋仲間
に対して米価引上策を諮問したことがあつた。その時堂島では仲
買の人数を一定して蔵米の入札を行はしむべしと答へたが、それ
が米仲買株の許可に与つて力があつた。それから両替屋の意見に
は近年諸国豊熟にて米穀充満し、直段下落し、諸人これがために
大いに迷惑する。全く諸国より出づる米の多きによるとはいへ、
一つには現在通用の金銀の位が宜しくて、米の位と相当せぬから
である。元禄宝永の金銀の位ならば、自ら米の位と相当せんか。
今の銀にて米一石三十目、宝永の銀ならば凡そ十割増の算用にて
六十目に当る。いづれ金銀と米との位の相当せざる理もあらんか
といつて居ます。
茲に現在通用の金銀といふのは、新井白石の意見によつて、七
代将軍の晩年に改鋳に着手したもので、慶長の金銀と同位のもの
である。白石の意見は金銀の質を古にかへさなくてはならぬ、元
禄以来悪貨幣の鋳造が物価の騰貴を促したと認めて居る。併し荻
生徂徠の説は反対で、金銀の位は必ずしも純粋なるを要せぬ。そ
の位は劣つても、一方に銭を余計鋳れば、母は子のために引立て
られて通用するといふのである。幕府は御定相場を廃止する前月
に金銀改鋳令を出して居る。御定相場を廃止する時の触書に「此
度金銀吹替も有之に付、先達而相触候米定直段相止候」とある。
御定相場の廃止と金銀吹替とは二つを結付けて考へねばならぬ。
今度出来た金銀を文字金銀といふ。慶長の金銀に比べて見ると
品位も劣るし目方も軽い。慶長金を一とすれば文字金は〇・五五
余、慶長銀を一とすれば文字銀は〇・五七余に当る。ざつと二分
の一で、果して米価は高くなつた。大阪の両替屋の意見を幕府が
採用したとはいはないが、幕府の意見は少くとも両替屋の意見と
同一であつたと推測せられる。
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