文字金銀の改鋳は確に米価を引上げた。然し米価と同時に外の
物価も上つた。米価だけを調節するわけには行かない。それから
十年間程は大したこともなかつたが延享元年(一七四四)になつ
て、また米価が安い。そこで幕府は同年九月、江戸及び大阪の町
人に命じて御買米を行はしめた。この時は各自の買米額を封書に
認めて渡し、絶対に秘密を守らしめたのであるから、総計で幾許
といふ数字は分らぬ。概算享保十六年の高によるとあるが、これ
は事実であらう。幕府は何事も前例による習慣で、幕府自身米を
買上げたのは勿論、江戸では米問屋仲買及び蔵前の札差に、また
大阪では堂島の米仲買に米を買はせてゐる。併し甘くは行かなか
つた。江戸での御買米申渡高は二回に分れ、第一回が百七名十万
三千五百石、第二回が百七十一名四十万八千五百石であつたが、
十一月に既にその中止を町奉行から稟請して老中から許可になつ
てゐる。町奉行から老中に向ひ、今迄買置いた米は勝手次第に売
払はせ、残額の買入を免除し、直段も相対次第商売せよと申渡し
たならば、却て捌方が宜しからう。米方役人共出精につき、米直
段が大いに上つたら、御褒美を伺ふ積りであつたが、格別に米値
段も上らぬから、一通誉めつかはすべきやと伺つてゐる。両條と
ふい
も伺の通とあつて折角の御褒美が零になつた。併し江戸で舂米屋
が仲間組織を命ぜられたのはこの時で、彼等が従来のやうに近在
の米を直接に引請けて格別の下直に商売をしては売崩に当るから、
カシ
向後は之を禁ずる。すべて御蔵米並びに武家方の払米を河岸八町
の問屋仲間から買請けて商売せよ、また近在より出る商米は河岸
ヂマハリ
八町并びに地廻問屋方に送れとある。舂米屋仲間は一番組から十
八番組迄に分れ合計千七百名程の人数でした。それから板倉源次
郎井上忠右衛門両名の出願で、官許を経、米相場吟味所といふも
のを日本橋四日市広小路に建てた。此所で江戸中に集まる米の相
場を立て、若し吟味所で立てた相場で仲買が買取兼ねる場合は、
幾許でも吟味所で買ふ。それには幕府から拝借金をしたいといふ
ので、これは延享元年の暮に出来て翌年二月にもう両名は請負を
取放たれ、会所は中止となつた。買取つた石高は凡そ三万俵余で
ある。
一方大阪では六分通は十月十一月までに買入れ、残りは来春に
なつて更に買入を命ずるといふ申渡があつたが、果してどうなつ
たか。兎に角延享二年四月には買持米に出精したことを賞し、勝
手次第に相対相場で売払つて宜しいと命じてゐる。然し米価が高
くなつたから売払を許したのではない。本年五月の相場は去年の
五月に比べて八九匁も安い。どうも延享度の御買米は思ふように
目的を達しなかつたと思はれる。最初は江戸大阪のみならず、京
都・大津・伏見・堺へも命ずる積であつたが、これも立消となつ
たらしい。
八代将軍吉宗は延享二年に隠居した。一生米で苦労したから米
将軍といふ異名があります。八代吉宗の子が九代の家重、その子
が十代の家治で、家治の治世は宝暦の末から明和・安永・天明へ
かけて足掛二十七年、随分長い期限で、田沼主殿頭父子が政権を
恣にしたため田沼時代ともいはれる。田沼時代といへば賄賂饗応
の時代、堕落淫靡の時代と頭から思はれて居ますが、さう\/暗
黒方面ばかりでなく、新しい潮流が動きかけて居るやうに見える。
経済史の方面からいへば興味ある現象が沢山あります。
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