Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その140

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第八 油 (1)管理人註

江戸の油入 用高 水油 白油 色油

  第八 油  米に次いで最も多く消費せらるゝ商品、また旧幕時代米につい で物価の標準となつた商品は油である。然るに油のことは余り人 が言はない。成る程今日では電灯があり、瓦斯灯があるが、徳川 時代では照明の方法としては蝋燭を除けば、ただ灯油あるのみで あつた。  天保十二年目本橋本船町の油問屋行事の届書に、御府内一ケ年 見積り入用油高九万六千樽、下油地廻油にて賄ふ積りと見えて ゐる。地廻油といふのは関東八ケ国より出る油で、八ケ国の内 でも主として武州・常州・野州・下総から出る。安房・上総・上 野・相模からは余り出ない。また下油といふのは大阪方面から 来る油のことで先づ一年間江戸に入る油を十万樽とすれば、七八 万樽が下油、二三万樽が地廻油である。勿論年によつて相違は あるが、まづ大体さうである。  江戸の油直段は地廻油の多少にもよるが、大体大阪の油相場 を標準とする。弘化頃の大阪の油相場は一石銀四百五十目から五 百五十目位で、これに樽代と運賃とを加へ、江戸の相場に直すと 十樽が二十九両三分余から三十六両余になる。してみれば江戸の 消費高十万樽は約三十余万両であつて、その高下が江戸の市民に どんな影饗を及したか、自ら明らかである。幕府が米直段の高下 と同様に油直段の高下を心配したのも無理はないと思ふ。殊に油 切といつて油の江戸輸入が途絶する時は大騒動である。長い江戸 時代の間に油切のあつたことは決して一度や二度ではなく、文政 九年(一八二六)の如きは殊に騒動が大きかつた。それがため幕 府は御勘定所役人を大阪に派してその原因を調査せしめ、油の生 産及び分配に大改革を施すに至つた。  一口に油といふがその中に色々の種類がある。(一)菜種から 絞るのを種油また水油といふ。但し水油といふ名称を油の総名と した場合もある。菜種一石から凡そ二斗三升を絞り、それを澄ま せて使ふ。そのため一石につき三升ばかり減る。(二)綿実から 絞るのを白油といふ。最初は黒油と称へたが、石灰を混ぜて色を 去るやうになつてから白油と名を変へた。綿実百貫目から凡そ一 斗八升を絞り、石灰を混ぜてそれを漉すために一石につき六七升 ばかり減る。菜種は石、綿実は貫で数へるので一寸比較に困るが、 綿実二万石、此貫数六十万貫目といふ文句がある。さうすると二 万石の菜種から出る種油は四千四五百石となり、同様の石高から 出る白油はその四分ノ一に達しない勘定となる。灯油の材料は種 油が第一で白油がこれに次ぎ、種油・白油・魚油を除き、その他                     ゴ マ    エ    カヤ の油を総称して(三)色油といふ。例へば胡麻油・荏油・榧油、 これ等はすべて色油です。

 


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