天保十三年
の諸相場所
廃止
米に関する
江戸の諸株
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天保度政革の時、町奉行遠山左衛門尉の意見にこれ等の空米相
場は甚だ不屈である。小網町及び尾州家紀州家の会所、以上三場
所とも以来御差止になるやう御申渡ありては如何。迚も延売買御
免のまゝでは不正の筋は止む機会があるまい。さりながら之を取
潰さうとすれば、傍ら正米も売捌いて居ること故、如何なる言開
きをなすかも知れない。名門且つ武家屋敷のこと故、踏込んで取
押へることも出来難い。寧ろ文政年中米切手売を許可する際、売
捌方に紛らはしい廉があれば、何時でも停止するといふ個條があ
るから、この点で米切手売買を禁止したならば、空米相場も自ら
止むであらうとある。これによつて三場所并びに水戸家仙台藩の
相場所は天保十三年正月に差止となつて仕舞つた。これで空米立
会は終局し、正米売買だけが尾紀の両家と仙台藩とに残つたので
あるが、幕末には以上三家でも水戸家同様欠張り空米相場が行は
れたといふことである。
江戸へ入る米は第一が上方筋から来る下リ米、第二が奥州筋か
ら来る奥筋米、第三が関東諸国から出る地廻リ米です。従つてこ
れらの米を取扱ふものは俗に米河岸といつて、伊勢町本船町の河
岸や附近の小船町・小網町・堀江町・堀留町等に群居した。後世
の所謂下リ米問屋即ち上方米を引請ける問屋を本米問屋または単
に米問屋といひ、地廻リ米及び奥筋米を引請けるものを地廻リ奥問
屋といつた。これは後世の関東米穀三組問屋と地廻リ米穀問屋と
を含めたものに当ると考へます。両者の区別は住所によるのみで、
前者は堀江町・小舟町・小網町に住居し、後者は市中一帯に散居
してゐる。さうして家業は実は同様ですが、三組問屋からいへば、
地廻リ米穀問屋が奥筋米を引請けるのは違法だといつてゐます。
仲買は下リ米・奥筋米・地廻リ米を引請け、また武家の払米を入札
する。これを河岸八町仲買といふのは住地によつたのである。
河岸八町に対して脇店米屋ある。これは仲買の手を経て引請け
た米を素人及び搗米屋に引渡す。直引請は出来ない訳であるが、
一方には地廻リ米穀問屋を兼業し、その方の名義で地廻リ米を引請
けることが出来たといふ。脇店十二ケ所とか脇店八ケ所とかいふの
は時代によつて組合が十二あつたり、八ツあつたりしたからだ。
この外に舂米屋がある。それが延享度に仲間組織を命ぜられた
ことは前に述べましたから略します。
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