寄合所
竪桶
明和七年の
仕法書とそ
の失敗
寛政三年の
仕法替とそ
の失敗
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出油屋伝書といふ写本に、古くは油相場所なく、問屋へ売に来
るものもあれば、問屋の方から買にもまはつた。享保の末年に至
り、寄合所が始めて京橋五丁目に出来たとあるのは事実であらう。
寄合所が出来てから、油の取引は必ず此所で行ひ、さうしてその
取引には必ず京口問屋が関係した。これは京口問屋のみが油検査
の特権を有してゐたからだといふが、どういふ縁故でその特権を
得たか。まだ説明したものを見ない。
油は鉉掛枡で量るものだが、問屋問屋で銘々鉉掛枡で量つた一
タテ
斗の竪桶を作り、それを使用するため自ら枡目の異同を生ずるに
至つた。よつて寛文九年(一六六九)油掛りの者共から町奉行石
丸石見守定次へ出願して、一斗の竪桶の正本下付を請ひ、爾来そ
れを手本として毎年三月十六日一同相会して新竪桶を作り、絞油
屋年行事へ一本づゝ問屋一軒前に四本づゝを配ることとした。今
絞油商組合に当時の正本を蔵し、石見守の肖像を掲げて毎年お祀
りをしてゐる。床しい話です。油の一樽は四斗入であるが、江戸
へ積送る場合は特に三斗九升入の樽を用ひます。
以上の株仲間許可によつて幕府の企図した所を察すると、種物
及び油を大阪に集中して油直段を引下げんとしたのである。水油
直段が高直では諸人難儀につき、先年から毎々吟味を遂げ、取締
を命じたが、油掛りの者共心得違にて無益の出費多く、両種物豊
凶の差別なく油直段高直につき、今度吟味の上諸向取締方を申付
けたと、明和七年九月の触書に見える。
諸国産出の菜種綿実は蔵物と言はず納屋物といはず大阪へ積登
せよといふ点は、いかにも種物の大阪集中であるが、両種問屋が
一手にこれを引請けるのではなくて両絞油屋も直買が出来る。さ
すれば買口が既に二つに分れて、直段引上げの萌がある。途買と
いつて途中迄出向いて買取つたり、艀下買といつてまだ本船から
積下ろさぬ中に買取る弊もあつた。大阪へ両種を廻す国々におい
ても、手作手絞が許されてゐるから、種物全部が大阪へ廻る訳で
はない。況んや摂・河・泉三州に三色も四色も許されてゐる水車
人力油稼株は、菜種綿実を大阪以外で買取ることになつて居る。
水草新田に限り大阪上リ菜種を買入る。買取範囲は菜種の方は狭
いが、綿実の方は極めて広い。
かやうに種物の買入についてその範囲の重複を見る。大阪以外
の地で絞つた油はすべて大阪へ積登せよとの命令であるが、手作
手絞を許した以上、何を苦しんでか自ら絞つた油を一旦大阪へ廻
し、更にこれを買取つて消費するものがあらうか、隠絞りと称へ
る密造は到る処に行はれたらう。
長い間かゝつて自然に発達して来た製造販売組織に、微温的の
統制を加へて目的を達しようとしたのは無理で、幕府が予期した
やうな好果は得られなかつた。それを憂慮して幕府は寛政三年
(一七九一)兵庫に菜種引請問屋を設け、安芸・周防・長門・出
雲・因幡・伯耆・石見・隠岐・阿波・大隈・壱岐・対馬十三ケ国
の菜種を引請けしめ、さうしてその菜種は西ノ宮・灘目・兵庫間
の水車人力油稼の者に限りこれを買取らしめ、絞立てた油は江戸
直積と為すも大阪の出油屋に送るも勝手次第と令した。
灘目両組即ち西ノ宮兵庫問に存在する水車油稼は一年に種油二
万九千余石白油一万六千余石を絞り得る能力がある。寛保三年
(一七四三)滞目及び西国筋から油を江戸へ直積することを禁じ
てゐるから、同年以前は直積を遣つたらしい。今菜種引請問屋の
設立と同時にそれが再び許された。幕府は種物及び絞油の集中点
を二ケ所に設け、その合計は当然一ケ所時代より勝り、従つて江
戸の油直段を低下し得るものと考へたのである。然るに事実は明
らかにこれに反し、文政五年遂に本令を廃止するの止むを得ざる
に至つた。
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