支配勘定楢
原謙十郎を
大阪に派遣
す
天保三年の
仕法替
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それから間もなく文政九年江戸油切の大騒動となり、幕府は支
配勘定楢原謙十郎を大阪に派遣して実状を調査せしめた。謙十郎
は西町奉行所組与力の援助を得て油に関する問屋仲買を西役所に
召喚し、過去十年間の諸統計を基礎として将来に対する取締案を
立て、文政十一年五月長文の報告書を上り、それに自己の意見書
を添へた。
謙十部の報告書及び意見書に対し、幕府はどうこれを取扱つた
か、委細は分明せぬが油方改革に関する評議は爾来引続き行はれ、
遂に天保三年十一月の改革令となつた。さうしてこの改革令は合
計二十項に亘り、甚だ複雑な規定とはいへ、眼目とする所は左の
七ケ條にあると思ふ。
(一)大阪の外、新に堺と兵庫とに両種物問屋を設置すること。
(二)播磨国に新に水車人力油稼株を許可すること。
(三)大阪の出油屋・京口・江戸口両油問屋一同を油問屋と改
称し、京橋五丁目の寄合所を廃止して内本町橋詰町に油寄所を建
て、油問屋は日々同所に出頭し、出油を引請け、油の改万代銀の
仕切等を正路に取扱ふこと、従来仲買の取扱つた製法油及び遠国
積を油問屋の取扱とすること。
(四)播州灘目油及び播州一円の油は大阪に売出さず、樽船を
以て江戸へ直積せしむること。
(五)大阪油問屋の売口を江戸大阪に限ること。江戸にては霊
岸島に油寄所を新設し、江戸着の油はすべて同所にて油問屋井び
トンヤナミ シイレカタ
に問屋並仕入方のものに売渡すこと。
(六)油掛りの者共から納めた冥加銀を免除し、口銭を改める
こと。
(七)摂・河・泉・播四ケ国にては右国々絞油屋をして増絞を
なさしめ、その分を以て一国限り日用油として小売を許すこと。
但し手作手絞を差止むること。
この改革令によつて油掛りの人員は当時左の如くなつた。
(イ)大阪菜種綿実両種物問屋五十五軒 堺同三軒 兵庫同五軒。
(ロ)大阪菜種絞油屋二百五十軒同綿実絞油屋三十軒 堺菜種綿
実絞油屋三十四軒摂・河・泉州在々油稼人(年々増減あり)。
(ハ)河内和泉二ケ国出油荷次所七ケ所。(ニ)大阪油問屋十三
軒(出油屋七軒・江戸口油屋四軒・京口油問屋一軒)。(ホ)大
阪油仲買百九十軒。(へ)灘目両組油稼人并に油詰問屋(人員不
明)。(ト)播州絞油稼人百軒。(チ)播州油江戸直積廻詰問屋
三軒。
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