江戸の油問屋は何時頃から起つたか分からぬが、元禄三年から
天明七年まで九十八年間の油相場を書上げた控を所持してゐたと
あるから、余程古いものに相違ない。正徳年中までは十四人ゐた
所、段々減じて七人となつたので、出願の上、寛保元年新に十四
人を加へ、合計二十一人となつた。文化六年十組が出来た時、油
問屋はこれに加入し、冥加金一年金五百両を納めた。この仲間に
は年行司といふものがなく、一ケ月二人づゝ交代で行事を勤めた。
問屋の取扱ふ油は水油白油で、これは壱樽三斗九升詰、封印のまゝ
で取遣する。この外色油も仕入はするが少分で、この方は主とし
て色油問屋三軒が取扱つた。
寛保元年油問屋の訴状に、近年仲買素人にて問屋同様大阪表へ
仕入金をして油を買下すものを生じ、油が散乱して不取締である
から、先年の通り入込油は残らず問屋へ纏まるやうに御取計を顧
ふとあつた。そこで町奉行所で問屋以外に油商売に携はるもの全
部を召し、問屋に加入せよと諭した所、その中から十四人が新規
に問屋加入を申立てた。よつて改めて新古問屋二十一人と仲買及
び素人で仕入をするもの四十七人を呼寄せ、町奉行所より右四十
七人に対し、その方共は問屋並に油を仕入れ、入津せば問屋へ差
出すべし。問屋共方にて買受け小売するのは勝手次第と申渡した。
問屋並仕入方といふのはこれです。問屋並仕入方は株札もなけれ
ば冥加金も納めず、仲買の中で兼業してゐた。
油仲買は株札な有するもの八十五人、冥加金として年々金百五
十両を納める外、古組といつて仲買附属のものが二十三人ゐる。
一名対談仲買といへば、これは株札を有する仲買人と対談の上で
仲買同様の仕事をしたものと思はれる。
問屋は仲買及び対談仲買に限つて油を売るが、外へは一切売渡
さない。仲買は問屋より買請けた油を調合し、小売油屋同様、小
売を兼帯するものもあれば、色油問屋を兼業するものもあり、ま
た問屋並に仕入をするものもある。
本船町の油改所は寛保元年の設置で、問屋も仲買も日々同所に
集合し、油一式の相場直段を取極めて売買した。然るに改所で延
売買をやるやうになつたため、文政二年廃止を命ぜられ、爾来仲
買が問屋共の店先に行つて入用の油を買請けることゝなつた。寛
保以前に復旧したと見て宜いであらう。後に霊岸島に出来た油寄
所の興廃については前に述べたから省略に従ふ。
関東八州から作出す菜種綿実は買問屋及び買次の手へ売渡す。
菜種買問屋は享保十二年に一軒、天明四年に二軒、またその節
在々買次のもの二百人が免許せられ、綿実買問屋は明和四年に二
軒、安永四年に十軒、またその節仲買四十人が免許せられたが、
前者は天明八年、後者はその翌年に廃止となつた。当時綿実は相
州足柄下郡早川村で絞立てたとあるが、菜種絞油屋は八州に散在
したと見え、特に住所を記したものがない。八州の絞油は所謂地
廻リ油で、一樽三斗八升入、それを取扱ふ問屋を地廻リ油問屋とい
ふ。この外尾張伊勢等の絞油は油問屋及び問屋並仕入方の手に入
つた。
かうして油は三口から江戸へ集まる。その概算は左の通り、
江戸表一ケ年見積
一 拾弐万樽 大阪七万樽 灘目弐万樽 堺弐万樽
伏見一万樽
一、三万樽 尾州勢州
一、弐万樽 江戸十里四方
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