Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.2.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その146

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第八 油 (7)管理人註

江戸大阪間 の油取引 定積 幕末の油相 場

 江戸大阪間に於ける油の取引には注文油と送油との二つがある。 江戸表油問屋及び問屋並仕入方の注文によつて送る油は、江戸口 油問屋から廻船問屋へ荷物を引渡し、請取証を取り、それを証拠 として代金を為替で組み、送油の代金は荷物廻着の上、売立の案 内を申遣はし、その後送主から為替を組んで来次第渡してやる習 慣であつた。尤も送荷は商品を江戸に寝かせて需要を待つのです から、蔵敷を払ふ必要があつた。また定積といふ言葉がある。こ れは一定数の樽数を送荷物とすることで、享保十五年に始まり、 寛政年間灘目油の江戸直積廻が免許せられるに及んで衰微中絶し、 文政五年灘目油直積禁止に至つてまた再興した。油が菱垣一方積 であることが定積を可能ならしめた一原因であつたらしい。  天保以後江戸で水油の相場の高かつたのは、最初が天保十一年 三月で四十七両二分(十樽につき)、それから万延元年までは四 十両に上つたことはないが、万延から文久にかけて再び四十両に 上り、元治元年慶応元年は六十両、同二年は八十七両、三年は百 八両となつてゐます。京阪地方が政治上混沌たる有様であつたた め、江戸積油が少くなつた結果と推します。慶応元年関東八州の 絞油屋共へ油締木壱柄につき鑑札一枚づゝを渡し、自今三年間油 を他国に積送り、または渡世違のものに売却すべからずと令した のは油相場暴騰に対して施した一策であつたと見るより外はあり ません。

 
  


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