江戸大阪間に於ける油の取引には注文油と送油との二つがある。
江戸表油問屋及び問屋並仕入方の注文によつて送る油は、江戸口
油問屋から廻船問屋へ荷物を引渡し、請取証を取り、それを証拠
として代金を為替で組み、送油の代金は荷物廻着の上、売立の案
内を申遣はし、その後送主から為替を組んで来次第渡してやる習
慣であつた。尤も送荷は商品を江戸に寝かせて需要を待つのです
から、蔵敷を払ふ必要があつた。また定積といふ言葉がある。こ
れは一定数の樽数を送荷物とすることで、享保十五年に始まり、
寛政年間灘目油の江戸直積廻が免許せられるに及んで衰微中絶し、
文政五年灘目油直積禁止に至つてまた再興した。油が菱垣一方積
であることが定積を可能ならしめた一原因であつたらしい。
天保以後江戸で水油の相場の高かつたのは、最初が天保十一年
三月で四十七両二分(十樽につき)、それから万延元年までは四
十両に上つたことはないが、万延から文久にかけて再び四十両に
上り、元治元年慶応元年は六十両、同二年は八十七両、三年は百
八両となつてゐます。京阪地方が政治上混沌たる有様であつたた
め、江戸積油が少くなつた結果と推します。慶応元年関東八州の
絞油屋共へ油締木壱柄につき鑑札一枚づゝを渡し、自今三年間油
を他国に積送り、または渡世違のものに売却すべからずと令した
のは油相場暴騰に対して施した一策であつたと見るより外はあり
ません。
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