Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.2.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その158

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第九 株仲間 (12)管理人註

問屋仲間組 合の再興

 株仲間の再興については、弘化二年(一八四五)町奉行に再勤 した遠山左衛門尉が就職当時既に建言した所があったが、その時 は差支ある品限りに問屋を取立てればよい、一般に古復といふに は及ばずといふ幕府の議論で却下となつた。然るに翌年七月、寄 合筒井紀伊守が問屋組合再興を申立つるに及び、それが動機とな つて、左衛門尉及び江戸の町年寄の上書となり、勘定奉行との交 渉となり、遂に嘉永四年(一八五一)三月九日の問屋組合再興令 となつた。再興令には、天保十三年株札并びに問屋・仲間・組合 等を停止し、冥加金銀上納は勿論、無代納物・無賃人足・駈付、 その外冥加勤の類を悉く免除したるに、爾来商法破壊し、諸色下 直ともならず、却つて不融通の聞あるにつき、今度文化以前の通 り問屋組合の再興を命ずる。但し株札を下付するのではない。ま た冥加金銀は愈々上納に及ばない。故に占売・占買・品劣・掛目 減等の不法を行はず、物価を低廉にし、正路の売買を営み、仲間 加入を希望するものには必ずこれを許し、明白の理由がなければ 人員の制限を許さない。新加入の時多額の礼金を貪り、過分の振 舞をさせてはならぬ。右の如く申渡した上は問屋組合とも都べて 当時の姿を以て調査し、組々名主共より町年寄并びに月番町奉行 所へ届出でよとあります。  諸問屋組合共現在のまゝ取調べよといふのであるから、一寸考 へると大変容易なことのやうであるが、事実は仲々さうでない。 天保十二年から既に十年を経てゐる。前々から家業を継続してゐ るものもあれば、改革以来新規に始めたものもある。休業者もあ れば業務継承者の不明(捨株といふ)なのもあり、文化以度新に 願出るものもある。また仲間組合の再興は江戸ばかりでなく、各 地も同様であるから、其所の奉行所から色々の問合せがある。名 主・町年寄・町奉行とも大繁忙で仲々埒があかぬ。漸く翌五年正 月までに江戸の分百十仲間は名前帳が確定した。  この時仮組といふものが出来た。これは天保後に開業したもの で、もとの仲間へ加入の見込がつかぬから、暫時仮組といふ名で 名前帳を差出した。然しながら一つの仲間の中に二つ組合がある ことは如何であるから一緒になれ、然らざるものは仮組を退けと 安政四年(一八五七)に命じてゐます。  それから株仲間の人員制限と冥加金銀の上納とが解除されてゐ るが、大阪では仮組の合併を諭すと同時に、天保度解放以前に冥 加金銀を上納した分は、先例に準じて来年から冥加金を納めよと 命じ、その金額は文久元年(一八六一)に至つて決定しながら、 冥加金銀そのものは遡つて安政五年分から取つてゐる。人員が一 定しなければ各自の冥加金負担額は毎年異同がある筈だ。或は冥 加金が極ると同時に、人員も一定したかも知れないが、何分判然 せぬ。冥加金上納のことは勿論江戸にもあつたに相違ない。元治 元年地廻酒問屋に一樽毎に銀六匁を課し、それを冥加金として 上納させたことが見える。嘉永から慶応三年まで僅々十数年に過 ぎないが、幕末紛乱の時代とて史料が少い。何とかしてそれを研 究しなければ、明治との間にそこに大きな間隙が出来て聯絡がと れない。これは独り経済史についていふのではない。自分はすべ ての方面において幕末から明治初年に亘る研究は、極めて困難で あらうがまた極めて必要であることを力説いたします。

 
  


「江戸と大阪」目次2/その157

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