Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.9.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その85

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第五 金 融
  一 両替屋 (1)
管理人註

金座 金貨六種  銀座 大黒常是

  第五 金 融    一 両替屋  幕府時代の貨幣には金・銀・銭・紙幣の四種がある。金は金座 で鋳造発行を掌る。金座は初め江戸京都及び佐渡にあつたが、後 佐渡を廃し、京都を江戸の附属とした。江戸の金座は遠江の人後 藤庄三部光次及びその子孫の世襲する所であつて、常盤橋外本町 一丁目本両替町間の後藤の屋敷が即ち金座役所であり、その下に 手代・小判師・吹屋等が居り、それ等が金貨の製造発行に従つた のである。材料としては佐渡甲州等から地金を買入れ、また両替        カルメキン 屋の手から瑕金軽目金を買集める。殊に改鋳の時には必ず幕府指 定の引替所を経て古金を集め、吹屋を指揮してこれを改鋳し、さ うして引替所を経て新金を発行する。金座の経費は改鋳即ち吹替 または吹直に際し、手数料として幕府より給与される吹賃を以て 支弁する。これを歩一金といつた。金座支配の後藤家は文化七年 (一八一○)十一代庄三郎の時不正の件が発覚して断絶した。そ こで銀座年寄後藤三右衛門が金座を支配したが、養子三右衛門に 至つてまた罪あつて金座支配を免ぜられ、爾後一族後藤吉五郭の 支配となり、以て明治に及んだ。この吉五郎といふのは庄三郎の 本家筋に当る大判座分銅座の後藤家の血統の人です。  幕府時代において金銀貨は幾度か鋳造せられた。金貨は小判一 分判が主なるものである。大判はあつたがこれは主として贈遣用 で、通常使用せられるのは(一)小判と(二)一分判とであつた。 大判と小判とは徳川氏以前にも見えるが、一分判は慶長鋳造の時 始めて出来た。その後(三)二朱判は元禄十年(一六九七)に、 (四)二分判は文政二年(一八一八)に、(五)一朱判は文政七 年(一八二四)に、また(六)五両判は天保八年(一八三七)に 出た。故に徳川時代に出た金貨の種類は大判を除き六種あつたの である。  金貨を鋳造した役所を金座といふやうに、銀貨を鋳造発行した 役所を銀座といふ。銀座は最初伏見両替町に出来、それが京都両 替町通に移り、駿府に置かれた銀座は江戸の新両替町即ち銀座一 丁目・二丁目・三丁目・四丁目に移り、さうして享和元年に再び 蠣殻町に移つた。大阪では高麗橋の東詰の内両替町に、また長崎 では芋原に銀座があつたが、長崎の分は寛政度に廃止せられたと いふ。銀座の役員には年寄・戸棚役・勘定役等がゐるが、別に大 黒常是といふものがあつて、銀貨に極印を押すことと包装をする こととを代々の職としてゐる。常是包といふ名称がある位です。 常是家にいはせると、銀貨鋳造権も同家にあるやうに主張してゐ ますが、その権利はどうして銀座の方に移つたか、また金座後藤 家にいはせると、元祖庄三郎以来数代御金銀改役になつてゐる。 銀座もその支配下にあるやうに主張しますが、果して同家は金座 に対するやうな支配権を、銀座に対して持つてゐたか、いづれも むづかしい問題です。但し庄三郎の甥の庄吉及びその子孫が代々 銀座の重役に任じ、七代三右衛門に至つて銀座年寄から御金改役 になつたことは前申す通りです。銀貨鋳造に対する歩一銀の収入、 新古銀の引替方等は金貨と違ひません。それから銀座が最初伏見 に出来たのが慶長六年五月といひます。金座の出来た年月は判然 しませんが、大した遅速はなかつたらうと考へます。  【手形の形式を備へた銀札 略】

文政二年は

一八一七



















































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