銀貨は目方を以て通用した。丁銀一個の目方は不同で、凡そ四
十目内外ある。金貨には両とか分とか朱とかいふ価がつけてある
が、銀貨には価が附けてない。単に目方で通用する故、丁銀だけ
では計算に不便である。そこで量目不同の小玉(小粒ともいふ)
といふものがあつた。明和二年(一七六五)になつて始めて五匁
銀を鋳たが、この時も矢張り目方を示してゐた。然し同四年にな
つてこの五匁銀は、銀相場の如何に拘はらず、十二枚を以て金一
両に代ふべしといふに至り、始めて価を附加せられたといふべく、
その後安永元年(一七七二)に至り二朱銀(南鐐)が鋳造せられ、
こゝに始めて純粋に表記の価を持つた銀貨が出来たのである。引
続き文政十二年(一八二九)に一朱銀、天保八年(一八三七)に
一分銀が出来た。故に徳川時代に出た銀貨は丁銀・小玉銀・五匁
銀を除き三種である。
銭座は寛永十三年幕府で寛永通貨銭鋳造のことを企て、芝の新
銭座及び江州坂本に銀座を置いたのが発端で、さうしてその翌年
水戸・仙台・吉田・松本・高田・長門・備前・豊後等各地に請負
人を置いて銭座の設立を許した。然しながら銭座は金座銀座のや
うに永久的のものでなく、或る期間を限り鋳造を許し、期限が尽
きれば廃止せらるゝを常とした。また或る一地方に限つて通用を
許されたものもある。仙台通宝がその通用を仙台領に限られ、箱
館通宝が箱館・蝦夷・松前三ケ所に限られてゐる類だ。
銭は寛永通宝を主なるものとし、後世鋳造するものも皆銭文に
は寛永通宝とあり、すべて一文銭であるが、宝永五年の宝永通宝
は十文に、明和五年の寛永通宝は四文に、天保六年の天保通宝は
百文に、文久三年の文久永宝は四文に通用せしめた。銭の質には
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銅銭あり、真鍮銭あり、鉄銭がある。鉄銭の中銑鉄で作つたも
のが一番劣等である。
紙幣は幕府では決して発行しなかつた。但し慶応三年兵庫に商
社を開き、百両・五十両・十両・一両・二分・一分六種の金札を
発行したが、この金札は民間一般に行はるゝに至らずして早く幕
府は瓦解した。然しながら諸藩または社・寺・組合等で発行した
紙幣は甚だ多かつた。通例諸藩で発行したものを藩札、その他を
百姓札といふ。これらは使用の範囲を限られてゐたから、使用に
不便の点多く、引換の確実如何によつて表記の直段とかなり開き
のあるものが多かつた。
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