大塩後素 義胆 願将慷慨至誠涙洗尽廟堂奸吏腸
へい
徳川政府その盛勢を極めて、奸吏柄を弄し、士気頽廃して弓鎗庫に潜
てん
み、下民苦に叫んで、上士奢に耽り、年の豊凶恬として顧みる所なし、
此時に当つて、身を挺して自ら一種の社会党を組織して、その首領と
なり、百数の党与を率ゐて、天満街頭硝煙弾雨の惨劇を演出し、富豪
くわんくわ
を却掠し、奸党を誅戮して、貧民を救ひ、鰥寡を賑はさんと欲し、却
つて大義名分の存する所を誤り、乱人賊子の名を得たる大塩後素は、
大坂町奉行支配の組与力にして名を平八郎といひ、字は子起、中斎と
いみな
号す、後素はその諱なり、
もと阿波徳島の城主蜂須賀侯の老臣稲葉九郎兵衛の家臣真鍋市郎の二
男にして、阿波国美馬郡岩倉村に生れしが、若ふして大坂なる親戚塩
田喜右衛門の養子となり、後之を辞して天満の組与力大塩平八郎の家
う
に養はれ、平八郎没して後祖父政之丞の後を襲けて名を平八郎と改め、
そ
其役を継いで組与力となりたり、幵も大塩の家系を尋ぬるに、其先今
川了俊より出でゝ世々今川家の臣となり、中祖波右衛門、今川義元に
従ひて桶狭間の戦ひに原頭の露と消え果てよりは、遺子波右衛門去つ
て徳川家康に仕へ、小田原の役に功労ありとて伊豆国塚本村を領じけ
るが、家康覇業全く成つて、越後柏崎の定番に補せられけり、されど
程もなく台命によりて義直公の臣となり、尾張に赴き、是により姓を
大塩と改めたり、その次子大坂に出で、町奉行配下の吏となり、遂に
伝へて平八郎に至りしなりとぞ、
たつと はじ
後素は深く王陽明の学を崇んで是を修め、中江藤樹是を瓶めて、熊沢
蕃山是を継ぎ、後三輪執斎の是を学べる外、其学遂に中絶せるを慨し、
しがく
自ら斯学を講究して一世に伝播せしめんことを図り、研磨精励眠食を
すくな
忘れて、多年の苦学得る所鮮からず、即ち洗心洞剳記と題する一書を
著はして、その識見せる所を叙述し、世に公にせり、性率直にして吏
として罪を断ずる秋毫も仮借する所なく、門弟を教育誘導する寛厳宜
しきを得て、大にその腹心を得、且つ貧を憐み、人を恵んで己れを忘
れ、仁恕到らざるなし、こを以て学問名声並び高く、官民共に信服し
て徳望一時に喧伝せりき、
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