そ
幵が未だ奉職中の著名なる断獄一二を指摘せば、岸和田人民が其領主
と地所の争訟及び京都の妖巫豊田貢の捕縛並に組与力弓削新左衛門の
み こ
自殺等の如き、皆当時有司の感歎せる所なりしといふ、この巫女豊田
ほと
貢といふは京都八坂三寧坂の辺りに住して、国禁を犯し、基督教を信
セイミ
奉し、舎密の学を識得して是を応用し、愚民を誘惑して、その教を奉
ぜしめんと欲し、人に逢ふ毎に、天地に神といふものなし、人には貴
ねが
賤の差別などあるべきや、一生の富貴を希はゞ、我教に従へとて、怪
しき画像を示し、奇術を行ひて人を驚かしなどしけるが、もと肥前国
の出生なりといへど、其素性は誰とて知るものなく、若き頃より京都
つま
に来りて、夫をも迎へず、寡居して人の吉凶を判断することを業とせ
り、後素は早くも此婦人の異教を奉じて、愚民を惑はすを知り、厳密
に探偵を遂げて、是を大坂町奉行に報告し、逮捕せんとせしが、京都
いしん
にも市尹ある事なれば、当地より手入るゝも余りに専断なるべしとて
かく
黙したりしに、貢は益々信用を博して其門に入るもの多しと聞き、斯
ては所詮打捨て置かたしとて、一応京都の町奉行へ照会し、是を捕縛
せしめんと計りしかど、町奉行にては兼ねて貢の奇術を行ふを知るも
のから、容易に手を下さゞるのみか、彼の婦人は決して世評の如き不
み こ
埒なるものにはあらで、極めて神聖なる神巫なれば、逮捕の必要なし
と復牒し来りたれば、後素は大に笑ひて、さては京都の有司までも其
教に惑溺せらるゝに至りしかとて、即ち大坂町奉行高井山城守に申請
して、自ら四名の捕吏を率ひて京都に馳上り、忽ち貢を捕へて大坂に
帰り、厳しく糺問せしかど、中々に胆太くして、白状すべくもあらず、
よつ
仍てその素性を探索して充分の調査を遂げ、さて呼出して再び訊問せ
しが、弁舌爽かに一々弁疏して、少しの凝滞とてもあらざれば、後素
それ
は貢に向ひ「コリヤ、夫程正義正法を以て人を教へんとする汝が、何
ゆえ
故あつて出生氏名を偽り居るか、と問しに、貢は「ナニ、妾は決して
すか
偽りしことなしと答ふるを隙さず「黙れ其方は肥前長崎大浦の出生と
とく
申せど、既に当方にては篤と取調べ置たるぞよ、其方はナ、京都二條
荒神口の百姓三郎兵衛の娘、幼名をみつと申し、幼年の頃祇園新地に
於て小みつと呼びて舞子稼業を致し、後に肥前丸山の妓楼に身を沈め
て遊女となりしが、その当時英国人に愛されて妾同様になりたること
それ
まで、悉く探偵致し置たは、夫にても猶陳ずるか、と厳しき糾弾に、
流石の貢も大に驚きしが、尚兎や角と陳述せしかど、遂に後素の明断
はりつけ
に服罪しければ、直に磔刑に処せられけり、
しれもの わるもの
又組与力弓削新左衛門は奸悪強慾の痴者にて、部下に悪漢を養ひ置ひ
ほしいまゝ
て手先となし、掠奪を 恣 にせしめて、己は夫より賄賂を取り、金銀
すこし
を貪ぼりて、其悪業を知れども、毫も罰することなく、善良の民を苦
へんぱ みだ
しめ、奸邪の徒を扶助し、よろづ偏頗の沙汰多くて、政道も大に紊るゝ
に至りしかば、後素深く之を慨して、直に山城守に具申し、部下の悪
漢数名を引致して罪状を暴露し、即ち弓削新左衛門に勧めて自刃せし
かろめ
め、以て其罪を軽しめたり、後素が事に処して果断を尊び、優柔を厭
ひたること概ね此類なり。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その30
幸田成友
『大塩平八郎』
その25
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