然るに、三月廿七日の事なりけり、ふとせし事より手掛りを得て巨魁
大塩平八郎父子の油掛町の更紗染職三好屋五郎兵衛方に潜匿し居る事
を探知し、先づ五郎兵衛を呼びて厳しく糺問し、漸く其実状を得て、
即ち与力内山彦次郎を遣はして逮捕せしめんとせしかど、平八郎父子
るゐせつ はづかしめ
はいかでおめ\/縲紲の恥辱を受けん事、既に破れたりと見て、直に
自刃し、仕掛け置きたる火薬の破裂と共に、父子半焼して死したりれ
る、
是まで雲州蔵屋敷に潜伏せりといひ、或は摩耶山に忍ぶといひ、甚だ
しきは、海に航して竹島に渡り朝鮮に渡れりなど種々の風説出でゝ、
ぜ
何れを是とも分かず、大に幕吏を悩ましたりし、大塩父子が自刃し果
てよりは、前後相継いで余党の縛に就くもの、或は自害せるもの多く、
事頓に平定しけり、
されば三月廿七日付の土井大炊頭より江戸への通牒を左に出さんに、
去月十九日徒党の内、行衛不分明者、家来共へ申遣、密々市中為相
探候処、昨夜当表油掛町美与屋五郎宅の隠居所へ、大塩平八郎父子
隠合致処、家来共へ申遣、密\/相探し、其筋へ通達いたし置き候、
付ては手延に相成逃去可申哉も難計、且見知人も其内へ差急き、不
取敢堀伊賀守組与力内山彦次郎へ家来より申伝候所、同組同心四人
同道罷越候に付、家来共九人一同申合、右五郎の支店前後より召掛
候手筈仕候処、裏之方通路入口手丈夫にて難踏込候へども、何れ生
捕りに可仕候、入口打破り押詰候所、如何可仕候哉、俄に火気出発
甚敷相立ち、平八郎父子の内刺交へ自殺仕り、火中へ入り、煙強く
所々燃立ち、両人も焼死仕候、両町奉行大火に付相請見分仕、父子
さうゐ
も相達無御坐御申聞候に付、家来より前文の趣申達、差図受引行仕
候段申聞候に付、此段申上候也、
こは四月三日、江戸へ着したりしが、同十二日、大坂よりの書面には、
平八郎父子並瀬田済之助、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司儀左衛門
等は召捕又は自滅致候へば、右の者、最早尋ねに及ばず、尤も大井正
一郎、河合一右衛門は弥油断なく相尋ぬべしとの通牒ありき、
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