『名判官物語』 中央公論社 1941 より
〔はじめに〕 | ||
第一章に於ては徳川幕府初期の名判官たりし板倉勝重・重宗父子の事蹟を記載したのであるが、勝重が京都所司代に就任した頃より幕府の司法制度は漸く基礎ができて、元和元年に至り基本的法律たる武家諸法度十三條が制定せられたから、従来鎌倉・室町以来の習慣(貞永式目建武式目等に依る習慣)により裁判が行はれてゐたのが右諸法度の公布により法規は明白となつた。併し僅少の條文であるからその規定のなきもの又は足らざるものに付ては裁判官は、武士道の常識により補足して裁判をしてゐた。法令の自標としたものは武家武士階級であつたけれども、一般国民に対しては武士の法規に準拠して裁判をしたのであった。その後江戸幕府は江戸府内(市中)の要所又は各地方の代官領などに高札といふものを立て、之に人民の平素守る條文を平易なる文字にて認め掲示した。その後幾多の変遷を経て御定書百ケ條が八代将軍吉宗の時に制定せられた、それであるから八代将軍の寛保二年までは幾多の単行法はあったけれども法典はなく不文法が行はれたのである、殊に御定書百ケ條も法典とはいうものの国民に公布したものではなく、奉行等の尊守すべき法規であつて所謂内規と称すべきものであつた。 右のごとき次第で板倉父子の裁判をなした時代とその後とは著しき変遷があるから、これより幕府の法制と裁判所構成等の概要を述べておくのは読者のため便利であると思ふ。
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家康吾妻鏡 を愛読す |
徳川家康は岡崎在城の青年時代より民政に心を用ゐ、奉行の人選を慎重にし、浜松に移つてから板倉勝重を抜擢して町奉行としたことは前に述べた通りである。浜松在城の頃は屡武田信玄と戦ひ信玄には常に苦しめられてゐたが、信玄の政治に巧妙にして克く甲斐信濃等の領内の人々を治め、乱世であるにも拘らずその生活を安定せしめ居るのを見て深く信玄に敬服し、武田氏滅亡後はその家臣を多く採用し民政に付ては信玄に模倣するところがあつた。関ケ原役が終ると家康は文学に志し、儒者を顧問として国を治むるの道を講じた。従来武勇一点張りであつた猛将加藤清正、浅野幸長、黒田長政などが学問に志したのも家康に倣つたのであつた。家康は「吾妻鏡」を愛読し、鎌倉幕府の政治の状態を研究して大いに得るところがあつた。
家康が入手した「吾妻鏡」は、小田原の北條氏に伝わりたるを、落城の時に北條氏より黒田如水に贈りたるもので、如水が慶長九年死去の時に遣物として家康に献上した珍本である。家康は大いに喜び之を刊行せしめた。その 他「武経」「群書治要」などをも刊行せしめたが、それは銅鋳の活字であつた。(慶長勅版考)
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