『名判官物語』 中央公論社 1941 より
〔武家諸法度十三條〕 | ||
武家諸法度 公布式 |
元和元年五月家康が眼の上の瘤のやうに思つてゐた大坂が落城し、国内を統一することが出来たから、予て準備して居りたる立法事業に著手し、同年七月七日将軍秀忠をして諸大名を伏見城に召集せしめて「武家諸法度」十三條を公布した。この法度は貞永、建武両式目に準拠したものであつて、この時本多上野介正純は制定の事由を説明し、立案者たる金地院崇伝は條文を朗読し厳正なる公布式を挙行した。式が終ると天下泰平を祝するため九番の能楽を催した。 次いで家康は関白藤原昭実と協議し「禁中竝公家中御法度」を制定し、同月十七日二條城に両伝奏及び公卿全部を会同して之を公布し、二十四日五山十刹、大徳寺、妙心寺、永平寺、総持寺、故義、新義、浄土宗等の法度を定めて、これを公布した。
諸宗の法度の中で浄土宗は天台真言より後に出でた宗門であるけれども、徳川氏は代々浄土宗であるから浄土宗 諸法度を初に公布した。次が五山十刹諸法度、次が大徳寺諸法度、妙心寺諸法度である。 同じく臨済宗でも大徳寺と妙心寺とは五山十刹とは別派であり、その派の本寺であるから別々の法度を制定した。越前の永平寺と能登の総持寺とは曹洞宗のいずれも本山であるから、これも別々に法度を定めた。次が真言宗諸法度である。又別に高野山衆徒法度というのもある。その外に日蓮宗諸法度もありて、宗門のことは議論多きため各宗の教示に基づき別々に條文を作り法度を制定したものであつた。
一 文武弓馬之道専可相嗜事。(説明の條文は略す。以下同じ) 一 可制群飲佚遊事。 一 背法度撃不可隠置於国々事。 一 国々大名小名竝諸給人各相抱士卒有為叛逆殺害人告者速可追出事。 一 自今以後国人之外不可交置他国者事。(本條は翌年削除した) 一 諸国居城雖為修補必可言上。況新儀之構営堅令停止事。 一 於隣国企新儀結徒党者有之者速可致言上事。 一 私不可締婚姻事。 一 諸大名参観作法之事。(本條は後年削除した) 一 衣裳之品不可混雑事。 一 雑人恣不可乗輿事。 一 諸国諸侍可被用倹約事。 一 国守可選攻務之器用事。 右可相守此旨者也。武家諸法度は幕府が諸大名及び武士を取締る憲法であるから、その後條文を多少修正増補したけれども代々これを襲用した。五代将軍の時に文体を改め、六代将軍の時に又之を改めて漢文体としたのを、八代将軍吉宗が五代将軍のときと同様に改めた。そして将軍の代替りには江戸城内に諸大名等を集め、林大学頭がこれを捧読して厳粛なる式を挙行するを例とした。又寛永九年に旗本の侍に対し「諸士法度」を制定したが、 内容は武家諸法度と同じであつて細目の規定をなしたものである。
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