『名判官物語』 中央公論社 1941 より
適宜改行しています。
裁判官の心得 | ||
法規上裁判官の心得を定めたるものは、慶長十九年二月二代将軍秀忠が大坂冬役に出陣中の時であるが、御当家令条に公事裁としての規定がある。
一 公事批判御定ノ儀、知音好之儀不及申、雖為親子兄弟、無依姑贔屓、可申付事。 一 於評定所批判相談之時、互心底存寄之通不寄善悪、毛頭モ不相残可申出事。 右ノ條々於違背者、罰文如法。 慶長十九年二月十四日 酒井雅楽頭外七名連署 | ||
訓則 誓詞の間 |
訴訟の審判は幕府が特に意を用ゐた所であつたから、執務に関する厳重なる訓則を設け、その掛役人よ
りは依姑贔負なく公正に職務を執行し又職務上のことは秘密を守るべき旨の誓詞を上らしめた。 誓詞に関する規定は慶長十九年二月に既に実行してゐる、「評定所格例」に依ると評定所の法廷の次に誓詞の間といふのがある。列席の役人は評定所の式日に、日本国中の大小の神祇殊に伊豆箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神等に対し起請の手続をしたのであつた。然るに文久二年に至り評定所にて誓詞の手続をなすことを止め、毎月四日正四ッ時城中柳之間に於て、老中大目付立会にて誓詞を仰付けらるることになつた。(徳川禁今考) ○ | |
牢問拷問 |
又訴訟に関与する役人に対しては公私の交際に付ても訓諭をなし、婚姻その他拠なき場合の外は他人の饗応を受け、又は他人を饗応することをも禁止した。これには元禄八年九月の諭達がある。 徳川時代の判決は犯人の白状を唯一の証拠方法としたから拷問の制度を設け、強情にして犯罪を自白せざる者を拷訊した。文書によりて正確に区別すれば牢問と拷問との二つがある。牢問とは吟味所の砂利の上に坐せしめ棒を以て殴打し、或は石を抱かせるのである、拷問とは拷問蔵にて行ふものにて、柱に罪人を釣り上げ、或は海老責と称し両手両足を海老の如く縛るのである。法規の上では拷問すべき罪人は殺人、放火、盗賊、関所破、謀書、謀判に限つてあつた。 そして名奉行は決して拷問をなさず、寧ろ之をなすを恥辱としていたが、奉行所の下調役人が拷問牢問を濫用したことは公知の事実である。
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