『日本及日本人 第749号』1919より転載
◎越後名寄の書に拠れば、冬の雪の前、雨凍つて飛散するもの即ち霙(ミゾレ)なり。吾輩を以て見れば、「霙の越後」は頗る詩趣あり。霙の夜を、越後の残燈に、書を読むの楽、長く忘るゝこと能はず。
◎一昨秋、吾輩、越後に遊び、塚野山に淹留する十二日、日々、霙降る。始めて霙の気分を味ひ、興趣尽くること無し。一夜、嵐して林木、皆、怒号するの翌日、晴。乃ち柏崎に往き、杉卯七を訪ふ。
◎杉は日本石油会社に技師たる二十年、一日の如し。吾輩、少年時よりの旧友なり。彼は雪国に紳士となり、雪国に老いんとするなり。彼の如き老実の人は得易からず。
◎此地の中学校長、羽石重雄、また吾輩、旧知なり。此日、杉が二十年前、初めて雪国に来りし記念日に当り、羽石は此日を以て長岡に転任するの辞令を受く。此時吾輩と三人相会し、感慨少からず。相携へて中学の楼上に登り、北海の怒涛を望む。
◎柏崎の海浜、白沙相連り、青松は悉く俯伏す。風力の猛なるを知るべし。此日北海、煮沸するかと疑ふ。海立ち浪騰りて、白波、天半に狂ふ。
◎壮なる哉、北海。生田万の義挙は六月一日なりし。海は晴れて静かなる朝なりしと伝ふ。然れども此の海濤を見れば、彼の義憤を追想せざる能はず。
◎吾輩、羽石、杉と相伴うて、中村藤八を訪ふ。彼、年、稍老ゆと雖、尚ほ老人には非ず。三分の酔を帯びて元気頗る旺盛なり。今、彼の全盛時に非ず、寧ろ失意なるべしと雖、当年の勇気を鼓舞しつゝあり。所蔵の記録書画を展観し、置酒して生田万を誇説す。
◎生田万は、天保の義民なり。其事矯激に失すと雖、其志、悲むべし。彼の理想は尊王救民に在り。彼は平田篤胤の高弟にして、才学、群を抜き、而して義憤の狂熱に斃れし者なり。韓退之の所謂狂者なるべし。
◎藤八は多く学ばずと雖、生田万を追慕し、其の断簡零墨をも蒐集、什蔵せんことを期するを見れば、彼も亦た尊王救民の狂者を悲しめる者ならずんばあらざるべし。「天下の藤八」を以て標榜する所以の気慨も、此に存するなるべし。
◎一世の名士、越後に客死して骨を埋むる者、出雲崎に釧雲泉あり、柏崎に生田万あり、ともに一生、轗軻不遇を極めたりし。
◎大塩平八郎の名を知らざる者無し。生田万の名を識る者稀なり。吾輩、嘗て、彼の古学二千文を読めり、然れども彼の義狂の士たるを知るは、柏崎に来りてなり。生田万は、吾輩の柏崎みやげの唯一のものとすべし。
◎吾輩、生田万の遺墨と遺事とを知るを得たるを、藤八に多謝す。然れども生田万は、柏崎の崇拝人物、柏崎の人、生田万を説かざるは無きなり。
◎陽明学は危険思想に非ず。楽翁公は朱子学を採り、陽明と古学とを排斥せしかども、靖献遺言の著者、浅見安正は、果して朱子学者に非ずといふを得るや。
◎米飯と雖、食法、宜しきを得ざれば、人寿を害すべし。政治、宜しきを得ずして、ひとり危険思想を予防せんとするは難し。悪政は梅雨の如し。すべてのものをして黴を生ぜしめずんば巳まず。
◎徳川氏の為に、危機を与へしは、大塩の洗心洞箚記に非ず。生田万の古学二千文にも非ず。浅見安正の靖献遺言に非ずや。
◎彼の世系は詳ならず。彼の九世の祖に正健あり。斯人を以て、彼の家の中興とすべし。正健、諱は栄、字は辱卿、抱一先生と号す。周防の人、陶晴賢の一族にして、陶閑玄の子、元と陶氏なり。母は青木氏。国変に、父母、郷を出て、弘治三年三月五日、京都の五条に生まる。
◎正健、十一才にして考妣を喪し、江州守山に到り、医師の 生田氏に養はれ、遂に刀圭を業とす。養父の歿後、近火の為に家を失ひ、京都に出で、医を以て著はれ、四方に周游す。
◎彼は医師なりしも、兼ねて文武に通じ、津山侯、森長可の知遇を受く。秀吉の九州陣に従軍して殊功あり。
◎長可、正健を禄するに千石を以てす。彼乃ち、貧富無常人世常。匹夫苟禄寵栄昌。不如短褐游山水。随意行吟幽興長の一詩を賦し、禄を其子正文に譲つて隠居し、読書漫游を以て自ら楽しむ。
◎正健は浪人骨ある者といふべし。独立不覊は彼の志なり。老来、諸方を游歴し、大阪より便船に搭じて津山に帰るの途海上、颶風起りしに、彼、従容として読書を止めず、船遂に覆り、彼も亦た歿す。寛永十八年二月八日にして、寿八十九歳といふ。
◎王陽明、銭塘より商船に駕し、風浪を衝いて界に至り、山中の孤廟に宿して、羣虎の吼ゆるを聞いて従容たりしに比するを得可きは、正健の最期なるべし。
◎正健、博く群籍を渉獵し、陽明の学を講ず。大中経五巻の著書あり。蓋し日本に於て、陽明学を祖述するの尤も古きものゝ一なるべし。
◎従来、陽明学は、藤樹、蕃山を嚆矢とす。若し正健の事蹟を闡明するを得ば、彼や、吾が陽明学に於ける先鞭者たるを失はず。
◎正健の事は明らかならず。然れどもかれの人物の輪郭を想見するに、生田万は、遠く彼の血脈を遺伝したる者なるべし。
◎彼の述懐の歌に、「うつしゑに、大和心をかきなさば、朝日てらてら霞む富士の峯」又いはく「我よりは厭ひもはてぬ世の中を、世にも人にも捨てられにけり」「ますらをと思ひたのみし我なれと、我にもあらぬ世をぞ経にける」
◎此の三首の歌に依つて見れば、彼が活発不覊の気力に富み不平、憤世の気、つねに其の胸中にしつゝあるを知るべし。彼の不平は、一身不遇の小不平も混ぜしなるべきが、彼の大不平は、皇道の衰微と、苛政の盛威、奸吏の横行とに対する憤懣ならずんばあらず。
◎柏崎の人、勝田樵路といへるが、彼の名を聞き、入門、束修の礼を修むべく、朝早く、彼を訪問したるに、彼、偶、顔を洗ひつゝあり。洗ひながら、ギロリと見たる眼光の凄さよ。勝田、慄然として、心中に恐怖を抱き、爾後、再び彼を訪はざりしといふ。
◎柏崎の町役人に中村長左衛門といへるが有りし。或人、其子を生田万に入門せしめんことを勧む。中村答へて、否、彼人の風貌宜しからず、愛子の教育は委ね難しといへり。
◎生田万は、世の所謂四角顔にして、眉間に薙刀状の疵ありしが、殊に、人相を険悪ならしめしなるべし。前額、広く突出し、顴骨低く、顔の中ほど窪み、下頬張り、唇厚く、口大きく、眉は月に似て太く逞ましく、両眼、爛々として、重瞳に似たり。
◎彼は頗る異相あるものといふべし。彼の風貌は、彼の人物精神を象徴するものなり。古今、異才は概ね異相あり。彼の異相を以て卜するに、乱世の勇者たる可く、志を得ば、治世にも能臣たるを失はず。決して凡庸ならざるものなり。斯人をして、轗軻不遇ならしむ。物騒ならざるを得んや。
◎彼は、由来、悍馬なり。千里の高能あり。其の伏櫪するに当つて、凡手の為に馴撫せらるべきに非ず。
◎大塩平八郎も異相あり、斯人も寧ろ物騒なりしなるべし。吾輩の父の知人に、大塩の門下生ありし。維新前に長州に来り、高杉晋作を見て、先師の風神に善く似たりと言ひしといふ。
◎大塩と生田万とは何らの聯絡あらず。大塩は寛政五年に生れ、生田より七年の先進なり。其の閲歴声望も亦懸隔す。暴挙の動機に至つても、大要、相似て、此は彼の影響を受けしなる可きを、疑はずと雖、必ずしも全然一致すといふを得ず。
◎大塩の先世、戦国の際、今川義元に事へ、桶峡間の戦後、家康に事へ、後、柏崎の定番に補せられ、義直、封を尾張に受くるに及び、従つて名古屋に移りし者あり。
◎知るべし、柏崎は大塩の旧縁の地なる事を。此地に於て、生田万が大塩と同じく陽明学者にして、大塩の影響を受けて暴発するに至る。柏崎、大塩、生田万、豈宿世の因縁無しといはんや。
◎彼は享和元年辛酉の年、上州館林に生る、藩士なり。幼名は雄、長じて万と改む。大中道人と号するは、先世正健に私淑するものなるべし。
◎彼、名は万。また名は国秀、字は救卿、東華また大中道人と号す。その外、生田首道麻呂、菅原道満、陶篤道、東寧山人、華山、瞭、或は利鎌の舎、桜園、かゞみの舎等の別号を用ゆ。然れども生田万を以て尤も顕著なりとす。
◎彼は頗る早熟の人なりし。八九歳にして藩学に入り、後ち宋儒の性理学を修め、李王の古文辞をも学び、十五六才に至つては、宋学の屑々焉たるを厭ひ、先世正健の大中経を講じ陽明学を好み、藩学の固陋なるを攻撃し、師友の怒に触れ、門を閉じて読書を事とす。一介の青年にして、嶄然として頭角を抜く。
◎彼は陽明学に私淑すると共に、漸く和歌を学び、国学に親しみ、真淵、宣長の書を読み、終に、平田篤胤の著書を読み、翻然として、身を皇道に投ずるに至る。彼の激昂、多感なる性格は、篤胤の熱烈なる神道説に共鳴せしを想ふ。生田万を陶冶せしものは、王陽明と平田篤胤となり。
◎陽明の知行合一と、篤胤の熱烈なる信條とは、彼を駆つて、直截、峻烈、狂熱敢行の性格を完成せしめたるなるべし。
◎彼が最後に、柏崎に於ける暴発は、性格の暴露によつて、早く既に、青年時に、その傾向を現はせり。
◎文政六年十月、生田万、年廿三。日光に詣でゝ東照廟に謁す。其の記行を夢路の記といふ。その中に歌あり。
東照宮に詣でゝ 神ころひ、君ころへりと、見ん人の ありやあらずや、これの大宮◎此の歌、一見、他の奇無きが如し。ころひの一語、幕府の為に恐るべし。書紀の神代の巻に、諸神嘖(コロヒ)素盞嗚尊曰とあり。嘖の一字、ころひと訓ず。後世に於ては死語なり。彼は故さらに此の古語を用ゐたるなり。
◎此の歌意、皇道衰微して、東照廟の、ひとり栄華を逞ましくするを憤慨し、此の美しき廟が神怒に触れつゝあるを、世人、知るや、知らずやといふに在り。語気極めて雄勁、将軍の衰亡を呪ひ得て、大刀を擬するの勢あり。
◎生田万が、廿三歳の一青年にして、日光に詣でゝ、覇業を呪ふの歌を作りしは、後年、三十七歳にして、柏崎に、僅に六人の同勢を提げて、覇者の政府に向つて、暴発したりしと同一精神に非ずや。
◎幕末に、松本奎堂が久能山に詣でゝ、鉄槌難入三泉底、此是祖龍埋骨山の詩を作りて、覇府を呪ひしは、世上に著聞す。然れども、生田万の日光の歌を知る者は少し。而して彼の時は、奎堂に先だつこと、数十年。徳川氏の栄華爛熟の時にして、奎堂の時と、同日の話に非ず。
◎生田万は、文学に、実行的に、尊王救民の旗を掲げて、幕府を呪ひ、幕に打撃を加へたる第一人者なり。彼の事、小なりと雖、彼の影響は恐るべし。幕府衰亡史を書かん者、生田万の名を逸す可らず。
◎古今暴発或は義挙の名を以て一世を驚かししもの、生田万の如く小人数なるは無し。大正七年の米騒動は大小幾百ありしなるべきも、これほどの小暴動は無かりし。
◎実は、生田万の暴発は、暴動といふべきほどのものには非ず。然れども、敢て、尊王救民の旗を掲げて暴発したりしを以て、如何に小人数といふとも、暴動たるを失はず。
◎大塩や、生田万や、治平の徳川氏に対して、兵を弄す、青天の霹靂なり。当時、その事、如何に、仰山らしく伝説せられたりけん。
◎竹越三叉の二千五百年史に、生田万の暴発に関し、天保八年六月一日、柏崎に一揆三千人起る。大塩の徒と称する者三十余人、これが首領たり。日ならずして平ぐの記事あり。誇張も此に至つて極まる。然れども此の記事、著者の誇張に非ずして、当時の巷説は、これ位に響きしならん。
◎大塩の暴発と雖、実は、それほどの人数無し。世説は誇張するものなり。一雷鳴つて満天皆鳴るかと思はるゝなり。
◎柏崎暴発の後、二年を経て、佐渡に、上山田村の義民中川善兵衛等十四人の暴発せしことあり。或はこれを以て生田万と聯絡ありしと説く者あり。
◎生田万は、孤身、突発的に、暴発せしものなり。他に一も聯絡せし者無く、気脈を通ぜし者も無し。
◎生田氏は正房の時、津山を去つて館林に仕ふ。正房の養孫信勝、則ち彼の父なり、信勝は元と片桐侯の藩士、江戸に生る。生田氏を嗣ぎ、禄百三十石を食む。妻は同藩の亀田氏、二男四女を生む。その中、二女早く死す。長男は万。次は廉廉、家を嗣ぐ。
◎彼、日光に詣でし翌年、文政七年、廿四歳、自著古学二千文を懐にして、江戸に出で、平田篤胤を訪ひて示す。篤胤、一見、読了す。彼、感激、涙下る。直ちに請ひて弟子となる。篤胤、彼を以て塾頭と為す。
◎彼と平田塾の同学に、柏崎の人、樋口英哲あり、諏訪社の祠官なり。彼と意気投合し、交情浅からず。彼は樋口の帰郷を送つて、「越の海に寄する白波、帰り来て、しきしき見とも、あかぬ君かも」の歌あり。
◎他年、彼を柏崎に誘致せし者は、此の樋口なり。然れども樋口は、彼の暴挙には、毫も関係無し。人物性行は同じからざりしと見ゆ。此の相同じからざる性格の二人が、電気の積極、消極の如く、相引いて契合したりしなり。
◎此の二人者は、相別るゝの後、互に、消息を寄せしと見ゆ。彼の遺稿の中に、樋口に寄懐するの歌、熱情迸ばしるものあり。その中に、「夢にこそ、君は見えしか、現には、千重も五百重も、山聳えつゝ、」「山聳え、海隔たるを、一日にも千度び百度び、魂ぞかよへる」。
◎彼は佳婿として落第せし者なり。然れども此の一些事、彼の心を動かすに足らざりし。篤胤、嘗て歌を作つて彼に示す。「青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎてひろめよ、此の正道を」、彼、即坐に答ふ、「青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎてひろめん、此の正道を」
◎此の一事を以て見るも、師弟相重んずるの深きを見るに足る。然れども彼が憤世の態度の矯激なるは、流石の篤胤も持て余ましたるべし。彼は在学数年ならずして帰郷す、篤胤の勧告に基づくといふ。
◎彼は同藩士香取氏の女鎬子を娶り、伉儷浅からず、文政八年、一男を生む。衛門と名づく。その十年、家を携へて館林に帰り、老父の長寿を祈りて、寿翁の名を上つる。
◎彼は故郷に帰臥すと雖、見るもの、聞くもの、憤世の種ならざるは無し。藩政改革を論じて、『岩にむす苔』の一篇を上り執政を弾劾す。
◎『岩にむす苔』の一篇、執政の激怒に触れ、、藩藉を削り、放逐せらる。彼、父を弟廉に托して、去つて利根河畔に隠棲す、詩を賦していはく、「何人不好酒、何人不好色、人情亦有足、有足不傾国、傾国非我君、太夫在失職」と。
◎彼隠棲中、また歌を作つていふ、「我親と、子の中らをし、さきしやつこは、誰のやつこぞ」彼の詩と歌とに由つて見れば、彼の真意は明らかに知らるべし。
◎彼の持説は、今の所謂民本主義に近し。而して彼は、これを以て、皇国の大道となせるものなり。