Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.7
2001.4.2修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と生田万(上)」

黒 頭 巾 (横山健堂 1871−1943)

『日本及日本人 第749号』1919より転載


◇禁転載◇

      

其    一

      

其    二

◎吾輩、柏崎に到るの前、此地、畸人ある事を聞く。彼、自ら称して「天下の中村藤八」といふ。 畝より起つて雪国の一名物となる。学無し、才あり。好んで天下の人物を談じ、田中正造に憧憬するらし。

◎吾輩、羽石、杉と相伴うて、中村藤八を訪ふ。彼、年、稍老ゆと雖、尚ほ老人には非ず。三分の酔を帯びて元気頗る旺盛なり。今、彼の全盛時に非ず、寧ろ失意なるべしと雖、当年の勇気を鼓舞しつゝあり。所蔵の記録書画を展観し、置酒して生田万を誇説す。

◎生田万は、天保の義民なり。其事矯激に失すと雖、其志、悲むべし。彼の理想は尊王救民に在り。彼は平田篤胤の高弟にして、才学、群を抜き、而して義憤の狂熱に斃れし者なり。韓退之の所謂狂者なるべし。

◎藤八は多く学ばずと雖、生田万を追慕し、其の断簡零墨をも蒐集、什蔵せんことを期するを見れば、彼も亦た尊王救民の狂者を悲しめる者ならずんばあらざるべし。「天下の藤八」を以て標榜する所以の気慨も、此に存するなるべし。

     

其     三

◎大塩と生田万とは、共に、陽明学者にして、ともに、天保八年の暴動の首魁なり。大塩は二月に、大阪に於て、生田万は六月に柏崎に義死す。彼は大塩の事を伝聞したり。二者の間に影響無しとはす可らず。然れども毫も聯絡あるに非りしは勿論なり。

◎大塩平八郎の名を知らざる者無し。生田万の名を識る者稀なり。吾輩、嘗て、彼の古学二千文を読めり、然れども彼の義狂の士たるを知るは、柏崎に来りてなり。生田万は、吾輩の柏崎みやげの唯一のものとすべし。

◎吾輩、生田万の遺墨と遺事とを知るを得たるを、藤八に多謝す。然れども生田万は、柏崎の崇拝人物、柏崎の人、生田万を説かざるは無きなり。

     

其     四

◎生田万は、陽明学に於ける著書無し。然れども吾近世の陽明学の歴史に記念さるべき宿縁を有す。

◎彼の世系は詳ならず。彼の九世の祖に正健あり。斯人を以て、彼の家の中興とすべし。正健、諱は栄、字は辱卿、抱一先生と号す。周防の人、陶晴賢の一族にして、陶閑玄の子、元と陶氏なり。母は青木氏。国変に、父母、郷を出て、弘治三年三月五日、京都の五条に生まる。

◎正健、十一才にして考妣を喪し、江州守山に到り、医師の 生田氏に養はれ、遂に刀圭を業とす。養父の歿後、近火の為に家を失ひ、京都に出で、医を以て著はれ、四方に周游す。

◎彼は医師なりしも、兼ねて文武に通じ、津山侯、森長可の知遇を受く。秀吉の九州陣に従軍して殊功あり。

◎長可、正健を禄するに千石を以てす。彼乃ち、貧富無常人世常。匹夫苟禄寵栄昌。不如短褐游山水。随意行吟幽興長の一詩を賦し、禄を其子正文に譲つて隠居し、読書漫游を以て自ら楽しむ。

◎正健は浪人骨ある者といふべし。独立不覊は彼の志なり。老来、諸方を游歴し、大阪より便船に搭じて津山に帰るの途海上、颶風起りしに、彼、従容として読書を止めず、船遂に覆り、彼も亦た歿す。寛永十八年二月八日にして、寿八十九歳といふ。

◎王陽明、銭塘より商船に駕し、風浪を衝いて界に至り、山中の孤廟に宿して、羣虎の吼ゆるを聞いて従容たりしに比するを得可きは、正健の最期なるべし。

◎正健、博く群籍を渉獵し、陽明の学を講ず。大中経五巻の著書あり。蓋し日本に於て、陽明学を祖述するの尤も古きものゝ一なるべし。

◎従来、陽明学は、藤樹、蕃山を嚆矢とす。若し正健の事蹟を闡明するを得ば、彼や、吾が陽明学に於ける先鞭者たるを失はず。

◎正健の事は明らかならず。然れどもかれの人物の輪郭を想見するに、生田万は、遠く彼の血脈を遺伝したる者なるべし。      

其     五

◎『人は見掛に依らぬもの』といへど、時として、人は見掛に依ることもあり。生田万の如きは、則ち其の人なるべし。

◎彼の述懐の歌に、「うつしゑに、大和心をかきなさば、朝日てらてら霞む富士の峯」又いはく「我よりは厭ひもはてぬ世の中を、世にも人にも捨てられにけり」「ますらをと思ひたのみし我なれと、我にもあらぬ世をぞ経にける」

◎此の三首の歌に依つて見れば、彼が活発不覊の気力に富み不平、憤世の気、つねに其の胸中にしつゝあるを知るべし。彼の不平は、一身不遇の小不平も混ぜしなるべきが、彼の大不平は、皇道の衰微と、苛政の盛威、奸吏の横行とに対する憤懣ならずんばあらず。

◎生田万は、世の所謂四角顔にして、眉間に薙刀状の疵ありしが、殊に、人相を険悪ならしめしなるべし。前額、広く突出し、顴骨低く、顔の中ほど窪み、下頬張り、唇厚く、口大きく、眉は月に似て太く逞ましく、両眼、爛々として、重瞳に似たり。

◎彼は頗る異相あるものといふべし。彼の風貌は、彼の人物精神を象徴するものなり。古今、異才は概ね異相あり。彼の異相を以て卜するに、乱世の勇者たる可く、志を得ば、治世にも能臣たるを失はず。決して凡庸ならざるものなり。斯人をして、轗軻不遇ならしむ。物騒ならざるを得んや。

◎彼は、由来、悍馬なり。千里の高能あり。其の伏櫪するに当つて、凡手の為に馴撫せらるべきに非ず。

◎大塩平八郎も異相あり、斯人も寧ろ物騒なりしなるべし。吾輩の父の知人に、大塩の門下生ありし。維新前に長州に来り、高杉晋作を見て、先師の風神に善く似たりと言ひしといふ。

◎大塩と生田万とは何らの聯絡あらず。大塩は寛政五年に生れ、生田より七年の先進なり。其の閲歴声望も亦懸隔す。暴挙の動機に至つても、大要、相似て、此は彼の影響を受けしなる可きを、疑はずと雖、必ずしも全然一致すといふを得ず。

     

其     六

◎生田万の人物は如何。彼には名字雅号、頗る多し。名の多きは彼が多理想、多趣味の人たるを、証するに足らずんばあらず。

◎彼は享和元年辛酉の年、上州館林に生る、藩士なり。幼名は雄、長じて万と改む。大中道人と号するは、先世正健に私淑するものなるべし。

◎彼、名は万。また名は国秀、字は救卿、東華また大中道人と号す。その外、生田首道麻呂、菅原道満、陶篤道、東寧山人、華山、瞭、或は利鎌の舎、桜園、かゞみの舎等の別号を用ゆ。然れども生田万を以て尤も顕著なりとす。

◎彼は頗る早熟の人なりし。八九歳にして藩学に入り、後ち宋儒の性理学を修め、李王の古文辞をも学び、十五六才に至つては、宋学の屑々焉たるを厭ひ、先世正健の大中経を講じ陽明学を好み、藩学の固陋なるを攻撃し、師友の怒に触れ、門を閉じて読書を事とす。一介の青年にして、嶄然として頭角を抜く。

     

其     七

◎彼の人物は霹靂火の如し。雰囲気の如何を問わず、直ちに爆破す。細微の導火にも容易に爆発する鋭敏なる火薬なり。爆発は其の自然にして、始より未だ嘗て、其の結果を打算せず。これを以て見れば、彼は理智の人に非ずして、感情の人たらずんばあらず。

◎彼が最後に、柏崎に於ける暴発は、性格の暴露によつて、早く既に、青年時に、その傾向を現はせり。

◎文政六年十月、生田万、年廿三。日光に詣でゝ東照廟に謁す。其の記行を夢路の記といふ。その中に歌あり。 

     東照宮に詣でゝ
    神ころひ、君ころへりと、見ん人の
        ありやあらずや、これの大宮
◎此の歌、一見、他の奇無きが如し。ころひの一語、幕府の為に恐るべし。書紀の神代の巻に、諸神嘖(コロヒ)素盞嗚尊曰とあり。嘖の一字、ころひと訓ず。後世に於ては死語なり。彼は故さらに此の古語を用ゐたるなり。

◎此の歌意、皇道衰微して、東照廟の、ひとり栄華を逞ましくするを憤慨し、此の美しき廟が神怒に触れつゝあるを、世人、知るや、知らずやといふに在り。語気極めて雄勁、将軍の衰亡を呪ひ得て、大刀を擬するの勢あり。

◎生田万は、文学に、実行的に、尊王救民の旗を掲げて、幕府を呪ひ、幕に打撃を加へたる第一人者なり。彼の事、小なりと雖、彼の影響は恐るべし。幕府衰亡史を書かん者、生田万の名を逸す可らず。      

其     八

◎大塩や、生田万や、治平の徳川氏に対して、兵を弄す、青天の霹靂なり。当時、その事、如何に、仰山らしく伝説せられたりけん。

◎竹越三叉の二千五百年史に、生田万の暴発に関し、天保八年六月一日、柏崎に一揆三千人起る。大塩の徒と称する者三十余人、これが首領たり。日ならずして平ぐの記事あり。誇張も此に至つて極まる。然れども此の記事、著者の誇張に非ずして、当時の巷説は、これ位に響きしならん。

◎大塩の暴発と雖、実は、それほどの人数無し。世説は誇張するものなり。一雷鳴つて満天皆鳴るかと思はるゝなり。

◎生田万は、孤身、突発的に、暴発せしものなり。他に一も聯絡せし者無く、気脈を通ぜし者も無し。      

其     九

◎此の二人者は、相別るゝの後、互に、消息を寄せしと見ゆ。彼の遺稿の中に、樋口に寄懐するの歌、熱情迸ばしるものあり。その中に、「夢にこそ、君は見えしか、現には、千重も五百重も、山聳えつゝ、」「山聳え、海隔たるを、一日にも千度び百度び、魂ぞかよへる」。      

其     十

◎平田塾に於ける生田万は頭角を抜き、篤胤も彼を眷顧せしと見ゆ。篤胤、彼を以て其の女婿たらしめんとせしも、其の女、彼の風貌、醜異なるを喜ばず。後、鉄胤、択ばれて、女婿となれりといふ。

◎彼は佳婿として落第せし者なり。然れども此の一些事、彼の心を動かすに足らざりし。篤胤、嘗て歌を作つて彼に示す。「青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎてひろめよ、此の正道を」、彼、即坐に答ふ、「青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎてひろめん、此の正道を」

◎此の一事を以て見るも、師弟相重んずるの深きを見るに足る。然れども彼が憤世の態度の矯激なるは、流石の篤胤も持て余ましたるべし。彼は在学数年ならずして帰郷す、篤胤の勧告に基づくといふ。

◎彼は同藩士香取氏の女鎬子を娶り、伉儷浅からず、文政八年、一男を生む。衛門と名づく。その十年、家を携へて館林に帰り、老父の長寿を祈りて、寿翁の名を上つる。

◎彼は故郷に帰臥すと雖、見るもの、聞くもの、憤世の種ならざるは無し。藩政改革を論じて、『岩にむす苔』の一篇を上り執政を弾劾す。

◎『岩にむす苔』の一篇、執政の激怒に触れ、、藩藉を削り、放逐せらる。彼、父を弟廉に托して、去つて利根河畔に隠棲す、詩を賦していはく、「何人不好酒、何人不好色、人情亦有足、有足不傾国、傾国非我君、太夫在失職」と。

◎彼隠棲中、また歌を作つていふ、「我親と、子の中らをし、さきしやつこは、誰のやつこぞ」彼の詩と歌とに由つて見れば、彼の真意は明らかに知らるべし。

◎彼の持説は、今の所謂民本主義に近し。而して彼は、これを以て、皇国の大道となせるものなり。


大塩平八郎と生田万 (下)

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