Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.7
2001.4.2修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と生田万(下)」

黒 頭 巾 (横山健堂 1871−1943)

『日本及日本人 第750号』政教社 1919より転載


◇禁転載◇

      

其  十  一

◎彼が館林を去つて、最後に柏崎に来りしまでの間は、専ら講学、著述に従事し、而して憤世の気慨は、いよいよ彼の胸を焚きつゝあり。著書は、一生、二十余部あり。

◎彼は利根河畔に隠棲すること久しからずして江戸に出で、数年の間、一男一女を喪し、天保二年、三十才にして、故郷の父を喪し、その秋、赦されて故郷に帰りしも、又た江戸に出づ、更に故郷に近き太田に退いて、塾を開き、子弟を教育す。

◎太田の人、渋沢子促、資を投じて、学舎を建て、厚載館といひ、彼を招く、時に天保四年なり。彼、欣然として此に講学すること数年。若し、彼をして長く此に安んぜしめば、柏崎の暴発は無かりしならん。

◎郷先生としての彼は、教育に熱心にして、感化も浅からざりしに似たり。路上に、掲示板を建て、成績を公示して、生徒を鼓舞せしなど、兎も角も、訓育の工夫を怠らざりしを見る。

◎彼の著書の中、古易大象伝は、年を閲すること四年、稿を易ゆること五たび、天保六年稿成りて篤胤に示し、篤胤、序を作る。

◎生田万をして、假令、噴火山の如き人物たらしむるとも、彼が関東に居り、故郷と篤胤とに離れざらしめば、彼は憤世の気を文章に寓して、篤胤の後の一篤胤たる可かりしなり。彼が遠く越後に往きしは、彼の為に、身世の大変革なりし。      

其  十  二

挿 図 (生田万筆蹟)
     

其  十  三

◎鐘が鳴る乎、撞木が鳴る乎。鐘と撞木と相得ざれば鳴らず鑿(ノミ)ありと雖、無ければ、活きず。生田万が柏崎に来つて、偶、鷲尾甚助を得たるは、橦木ととを得たるが如し。彼の危険性に点火したるものは、鷲尾ならずんばあらず。

◎鷲尾甚助、名は義隆、尾張の人、神道無念流を学び、当代の剣客なり。江戸の永井軍太郎に学び、技成つて越佐の間に游歴し、天保四年頃より柏崎に来り、樋口等も従遊するを以て生田万に邂逅し、肝胆相許すに至る。

◎維新前の越後は、交通不便にして、形勢自ら独立国を為し、国情、貧富懸隔して、大地主は大小名の如く、人文の開発に任ず。天保の飢年と雖、地主は苦しまず。昔より游歴人を歓待するの風あり、東都の名士、越後に一遊せざるは無し。鷲尾も、生田万も、此の如くして来寓せるなり。

◎鷲尾は加茂町に家を為し、妻を娶り、道場を設けて門人を養成しつゝ、時々、国中を游歴す。生田万に逢ひしは、天保七年十月十一二日の頃といふ。鷲尾は彼の皇道説に傾倒し、直ちに入門して、これより国学に心を潜め、且つ、屡、ともに時事を談論す。鷲尾も彼と、速に相許せしだけ、剣士と雖、文事を好み、政論にも趣味を有せしと見ゆ。

◎鷲尾の態度を見れば、暴虎憑河の勇には非ず。思慮分別あり。近年、剣客にして代議士となりし者あり。彼も今日の時勢に遭遇せしめば、或は選挙場裏に立ちしやも知れず。

◎生田万の暴発に参加せし者、鷲尾の外、山岸嘉藤次、小野沢佐左右衛門、古田喜一郎の三人、皆、地主にして剣を好み、覇気ある者なり。山岸は、かねて彼に文学を学びし者なり。外に鈴木城之扶、本姓菊地氏、水戸の藩士、藤田東湖が景山公を擁立するの運動に参加せしことある青年なりしが、後、水戸を去つて浪人したる者なり。

◎彼の暴発に、徒党六人。その中、従たる三人は越後人にして、主たる三人は国外人なり。首領生田万、三十七才、その余、悉くこれより若し。

挿 図(生田万筆蹟)
     

其  十  四

     

其  十  五

◎天保八年五月九日、生田万は飄然、樋口を訪ひ、三條町に游歴する為に告別し、その夜、樋口の答訪を受けし時、座上に山岸嘉藤次あり。翌十日、彼は山岸を隨へ、再び樋口を訪ひて、後事を托し、出発せり。

◎彼は、三條町より更に新潟に游び、三條に帰りて大庄屋の宮島弥五兵衛に寓し、皇学を教授しつゝありしといふ。宮島は鷲尾の門人なり。生田万は此家にて鈴木城之扶に邂逅し、旬日の中に、相謀りて暴発するに至れり。

◎生田万が柏崎を去りし時、彼の胸底、深く暴発を思ひしや。彼の旅行は、単に游歴の為なりしや。彼の真意、未だ容易に捕捉す可らずと雖、彼が旅行に於て、鷲尾と鈴木とに逢ひ、暴発の動機を為せしは事実なり。

◎五月末日、生田万を始め六人、結束して三條町を発し、舟をふて、海路、夜、荒浜に上陸し、富豪を襲ひて、倉庫を開いて、米金を村民に賑はし、夜を籠めて柏崎に向ひ、六月一日の早暁、代官陣屋に乱入し、午前の中に三人闘死し、生田万と山岸とは自殺し、鷲尾は生田万の首を携へて遁走し、途中に葬り、遠く江戸に奔りて幕府に自首し、獄中に病死す。

◎生田騒動の梗概は此の如く簡明なり。然かも六人の中、鷲尾一人は鵜川の橋上に留りて、町より来るべき役所の援兵を喰止め、長板橋の張飛を以て任じたるが故に、陣屋に乱入したりしは五人なり。

◎生田万は烈火の気性あるも、武芸には鍛練せざりしにや、自ら槍を執つて奮闘したるも、捗々しき效は見えざりし。悪鬼の如く荒れまはりて勇名を残せしは、大刀を揮ひし鈴木城之扶なりし。彼の為に斬殺せられし者三人、傷けられし者七八人。彼一人ありしが為に、生田騒動の武勇譚は語るに足る。

     

其  十  六

◎生田万の妻児の最期は悲壮を極めたり。彼の妻は暴発を預り聞かずといふ、全く与かり知らずといふ。全く聞知せざりしなるべし。暴発の朝、妻鎬女は家主に到りて手伝ひ、其夫の暴発の為と知らずして、握飯の焚出しに従事したりし時、捕吏来る。

◎彼女は徐ろに捕吏に応接し、自家に帰り、衣装を改め、二児を携へて、獄に伴はれたり。其の沈着の態度、観者をして感嘆せしめきといふ。

◎彼女は、入獄の翌夜、二児を縊殺し、自ら両膝を縛し、端坐して、舌を噛んで死せり。年三十一。その壮烈、生田万の妻たるに恥ぢず。

◎彼女は文藻あり、其夫と共に、歌を賦せしことも少からざりしと見ゆ。柏崎にて、知人の病歿を弔ふの歌に、「雪よりも、もろきは君の命毛の、筆の跡のみ消残るかな」

◎彼女が逮捕されし時、下婢、町の附近の農女なるが、その日、その翌日、続けて、玩具、菓子、握飯等を差入れせしといふは、義気称するに足るべし。      

其  十  七

◎生田万の暴発は、徳川幕府の暴政に対する、博浪の一撃に比す可きものならずんばあらず。此の意味に於て、彼の名を記念す可く、彼の暴発を伝ふるに足るべし。

◎彼が暴発の影響は如何。暴発の翌日、柏崎の米価、暴落したるを見れば、此の一挙、奸吏、奸商に、警醒を与へたるを思ふ。

◎暴発の後、彼の知人、彼の連累を恐れて、彼の筆跡等、概ね破毀され、湮滅されたるを以て、彼の詳伝の材料は得易からず。


大塩平八郎と生田万 (上)

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