『日本及日本人 第750号』政教社 1919より転載
◎彼は利根河畔に隠棲すること久しからずして江戸に出で、数年の間、一男一女を喪し、天保二年、三十才にして、故郷の父を喪し、その秋、赦されて故郷に帰りしも、又た江戸に出づ、更に故郷に近き太田に退いて、塾を開き、子弟を教育す。
◎太田の人、渋沢子促、資を投じて、学舎を建て、厚載館といひ、彼を招く、時に天保四年なり。彼、欣然として此に講学すること数年。若し、彼をして長く此に安んぜしめば、柏崎の暴発は無かりしならん。
◎郷先生としての彼は、教育に熱心にして、感化も浅からざりしに似たり。路上に、掲示板を建て、成績を公示して、生徒を鼓舞せしなど、兎も角も、訓育の工夫を怠らざりしを見る。
◎彼の著書の中、古易大象伝は、年を閲すること四年、稿を易ゆること五たび、天保六年稿成りて篤胤に示し、篤胤、序を作る。
◎生田万をして、假令、噴火山の如き人物たらしむるとも、彼が関東に居り、故郷と篤胤とに離れざらしめば、彼は憤世の気を文章に寓して、篤胤の後の一篤胤たる可かりしなり。彼が遠く越後に往きしは、彼の為に、身世の大変革なりし。
◎徳川の世は恰も熟柿の如く、爛熟して、糜爛して、識者、その弊に堪へざるの時、天偶、連年の飢饉を下して、世変の危機を醸成したり。多感不平の大塩平八郎生田万の徒、此時に遭遇して、義民となりて現はる。
◎天保初年以来、飢饉続き、六年に至つて、飢饉も極まり弊政も極まる。国帑足らざるが為に、悪貨乱発されて、良貨は隠れ、良民も窒息し、奸吏、奸商、蔓草の如くに、天下に蔓延しつゝあり。蔓草を刈らんとして、身を殺せし者は、大塩と生田万とを先鞭とす。
◎天保六年には、餓死者、往々、野に横はるあり。越後は殊に甚だしく、而して越後米の名あるを以てして、他方より買占の手を伸ばすあり。中にも、江戸の豪商千波太郎兵衛の如き、金十万両を齎らし来りて、新潟、寺泊等に買占を逞しくし、為に米価、俄に騰貴して、十両を以て七俵を買ふに足らず。
◎十両に七俵といへば、今より見れば夢の如し。然れども当時に在つては破天荒の暴騰なり。宝暦七八年の頃は十両に四十三俵、天明の末年は二十三俵、これに比すれば近々数十年の中、暴騰驚くべし。
◎鎖国の世の中、外国米の来るべき無く、各地方に於ける自衛の策、唯だ防穀令の一方あるのみ。然るに、柏崎の奸吏、偏に奸商と結托して、米穀の買占輸出を幇助し、世情、ますます険悪を加へつゝあり。
◎生田万は天保六年の冬を以て、柏崎の樋口に向つて来游の意を報じ、踰へて七年の春を以て、太田を発し、碓氷峠を越え、信州を経歴して柏崎に来る。途、川中島を過ぎて、古戦場を弔ひ、五月十四日、樋口の家に著す。
◎彼は、樋口の紹介を以て、町の有志者に概ね交游を結び、その博学、卓犖を崇敬せられ、吟杖を留めん事を懇請せられしも、一旦、辞して太田に帰り、柏崎の有志者、更に協議して、総代を太田に送り、彼を迎請す。彼、乃ち家を挙げて来る。七年九月の末。
◎初め、彼は旅館丁子屋に投じ、六箇月の滞留願を提出し、更に山田小路の下山田長八郎の長屋に移住し、三箇年間賃借の契約を為す。
◎柏崎の有志者、彼を迎へしも、かれが来りしも、当初、講学の外、別に深意あるに非ず。然れども彼が来寓してより暴発に至るまで、僅に九箇月に満たず。結果より見れば、彼は、殆んど暴発す可く柏崎に来りしやに見ゆ。然れども滞游の短かりしは、則ち彼の暴発に、徒党の極めて少かりしなるべし。
◎抑、此の不穏の世に、彼は、何故に、遥々、北越の游を企てしや。越後の凶年の惨状、殊に甚だしきを聞きて、視察の為にや。
◎彼と樋口と連年、消息を通じて一游を思ふこと久しく、彼が游意の動きしが、偶此の険悪の時に際会したりしならんと吾輩は思ふ。また或は、彼は、既に、稍、太田に飽きたりしにや。兎に角、彼が来游の動機は詳かならず。
◎鷲尾甚助、名は義隆、尾張の人、神道無念流を学び、当代の剣客なり。江戸の永井軍太郎に学び、技成つて越佐の間に游歴し、天保四年頃より柏崎に来り、樋口等も従遊するを以て生田万に邂逅し、肝胆相許すに至る。
◎維新前の越後は、交通不便にして、形勢自ら独立国を為し、国情、貧富懸隔して、大地主は大小名の如く、人文の開発に任ず。天保の飢年と雖、地主は苦しまず。昔より游歴人を歓待するの風あり、東都の名士、越後に一遊せざるは無し。鷲尾も、生田万も、此の如くして来寓せるなり。
◎鷲尾は加茂町に家を為し、妻を娶り、道場を設けて門人を養成しつゝ、時々、国中を游歴す。生田万に逢ひしは、天保七年十月十一二日の頃といふ。鷲尾は彼の皇道説に傾倒し、直ちに入門して、これより国学に心を潜め、且つ、屡、ともに時事を談論す。鷲尾も彼と、速に相許せしだけ、剣士と雖、文事を好み、政論にも趣味を有せしと見ゆ。
◎鷲尾の態度を見れば、暴虎憑河の勇には非ず。思慮分別あり。近年、剣客にして代議士となりし者あり。彼も今日の時勢に遭遇せしめば、或は選挙場裏に立ちしやも知れず。
◎生田万の暴発に参加せし者、鷲尾の外、山岸嘉藤次、小野沢佐左右衛門、古田喜一郎の三人、皆、地主にして剣を好み、覇気ある者なり。山岸は、かねて彼に文学を学びし者なり。外に鈴木城之扶、本姓菊地氏、水戸の藩士、藤田東湖が景山公を擁立するの運動に参加せしことある青年なりしが、後、水戸を去つて浪人したる者なり。
◎彼の暴発に、徒党六人。その中、従たる三人は越後人にして、主たる三人は国外人なり。首領生田万、三十七才、その余、悉くこれより若し。
◎此の地方に餓死する者も少からず。或る村の農民は藁のふしを喰尽し、松皮を食ふもあり。七年の十二月二十九日、昼二時、日輪三つ並び出て、その二は光薄し。米価下落の兆なりといひし者あれども、応仁の乱前に、長禄三年閏正月二日、日 輪二つ出でしことありといふを思出して悲観せし者もあり。既に、甲州には一揆起りしと聞き、人心恟々たり。
◎甲州の暴動は田舎の百姓一揆にして、世上に名望ある者の暴発せし者未だ無し大塩の暴発に至つて大阪にての事といひ、その声望といひ、天下を動かしたるなり。
◎此の険悪なる時情に処して、柏崎の代官等は毫も秕政を改めず。生田万も、竊に意見を通ぜしことあるも省みられず。彼の憤慨は烈火を包むが如くなりしなるべし。
◎柏崎の代官陣屋は、町の西端、鵜川を渡り、大久保村に在り。今 内藤久寛の邸宅に当る。桑名の松平侯の分封、越後の八万三千石を支配し、代官一人或は二人生田万の暴発の時は二人ありし。その外、諸役人。およそ六十余人あり。
◎彼は、三條町より更に新潟に游び、三條に帰りて大庄屋の宮島弥五兵衛に寓し、皇学を教授しつゝありしといふ。宮島は鷲尾の門人なり。生田万は此家にて鈴木城之扶に邂逅し、旬日の中に、相謀りて暴発するに至れり。
◎生田万が柏崎を去りし時、彼の胸底、深く暴発を思ひしや。彼の旅行は、単に游歴の為なりしや。彼の真意、未だ容易に捕捉す可らずと雖、彼が旅行に於て、鷲尾と鈴木とに逢ひ、暴発の動機を為せしは事実なり。
◎五月末日、生田万を始め六人、結束して三條町を発し、舟をふて、海路、夜、荒浜に上陸し、富豪を襲ひて、倉庫を開いて、米金を村民に賑はし、夜を籠めて柏崎に向ひ、六月一日の早暁、代官陣屋に乱入し、午前の中に三人闘死し、生田万と山岸とは自殺し、鷲尾は生田万の首を携へて遁走し、途中に葬り、遠く江戸に奔りて幕府に自首し、獄中に病死す。
◎生田騒動の梗概は此の如く簡明なり。然かも六人の中、鷲尾一人は鵜川の橋上に留りて、町より来るべき役所の援兵を喰止め、長板橋の張飛を以て任じたるが故に、陣屋に乱入したりしは五人なり。
◎生田万は烈火の気性あるも、武芸には鍛練せざりしにや、自ら槍を執つて奮闘したるも、捗々しき效は見えざりし。悪鬼の如く荒れまはりて勇名を残せしは、大刀を揮ひし鈴木城之扶なりし。彼の為に斬殺せられし者三人、傷けられし者七八人。彼一人ありしが為に、生田騒動の武勇譚は語るに足る。
◎憶ふに、生田万は極めて単純なる人物なりしなるべし。檄文を先づ撒布し、自ら旗を挙げ、それ丈けにて大事成るべしと楽観したりし乎。鷲尾が成功を危ぶみしといふ話あれば、彼等の暴発が、経営、深謀といふもの更に無く、直情径行なりしを察するに余あり。
◎陣屋より与板の井伊侯、長岡の牧野侯に救援を求めしに、急使は途中の暴徒を虞れて、小千谷に迂回して行きしといふ。与板の出兵は荒浜の海岸を固め、翌日、翌々日、続いて長岡の援軍数百人、到著し、輜重兵站すべて整頓し、軍装、炎日に輝き、稀有の壮観なりしといへど、此時、暴発と暴徒と悉く滅び、大嵐の跡、大火事の跡の気分なりしあらずんばあらず。
◎旧幕の制、暴挙に対する裁判の物々しきこと、言語同断なりし。生田万に交際(カゝリアヒ)せし人々は固よりの事、暴発に居合はせし人々、強迫されし人々、悉く、掛合人として、江戸に送られ、秋に至つて、断獄漸く成る。六人の屍体は塩漬にして保存すること約三十日に及び、猛臭紛々、その処分に従事せし者、鼻を掩はざるは無かりしといふ。
◎生田万の妻児の最期は悲壮を極めたり。彼の妻は暴発を預り聞かずといふ、全く与かり知らずといふ。全く聞知せざりしなるべし。暴発の朝、妻鎬女は家主に到りて手伝ひ、其夫の暴発の為と知らずして、握飯の焚出しに従事したりし時、捕吏来る。
◎彼女は徐ろに捕吏に応接し、自家に帰り、衣装を改め、二児を携へて、獄に伴はれたり。其の沈着の態度、観者をして感嘆せしめきといふ。
◎彼女は、入獄の翌夜、二児を縊殺し、自ら両膝を縛し、端坐して、舌を噛んで死せり。年三十一。その壮烈、生田万の妻たるに恥ぢず。
◎彼女は文藻あり、其夫と共に、歌を賦せしことも少からざりしと見ゆ。柏崎にて、知人の病歿を弔ふの歌に、「雪よりも、もろきは君の命毛の、筆の跡のみ消残るかな」
◎彼女が逮捕されし時、下婢、町の附近の農女なるが、その日、その翌日、続けて、玩具、菓子、握飯等を差入れせしといふは、義気称するに足るべし。
◎彼が暴発の影響は如何。暴発の翌日、柏崎の米価、暴落したるを見れば、此の一挙、奸吏、奸商に、警醒を与へたるを思ふ。
◎暴発の後、彼の知人、彼の連累を恐れて、彼の筆跡等、概ね破毀され、湮滅されたるを以て、彼の詳伝の材料は得易からず。
◎彼は死して滅びず。嘉永二年、江戸に於て、彼の代表作たる古学二千文は上木され、明治卅三年、彼の碑は柏崎に建てられ、子品川弥次郎、碑文を撰す。彼の石祠の前に立てる碑には、学識卓絶千古、志気推倒一世、何人得当此語、非吾生田大人而誰也と記す。
◎生田万の義烈の魂魄、千載の下、民風を鼓舞するに足る。彼は生きて奸吏の手に斃れたりと雖、彼は死して奸悪を圧倒するものなり。彼の死するの日、腥き暴発の舞台に喜劇あり。以て、彼の威霊を表現すべき佳話なり。
◎彼等の死後、陣屋の役人、物見台に上り、荒浜を望む。慌だしく叫ぶ、暴徒数百人上陸、し来ると。代官等、驚恐して、警戒を厳にして待つ。
◎此朝、代官、家に在り。暴発を聞き、驚き走りて、遠く市外の寺に投じ、椽の下に潜伏しつゝあり。生田万の死を聞き、出で来る。頭上、蛛網を纏ひつゝ、自ら知らず。衆人、皆笑う。蓋し平生、権威に誇る者は、国家の大事には弱き者なり。
◎代官等、部署を固めて、終日、待てども暴徒、更に来らず。日暮、斜陽沈む頃佐渡牛二三百、隊を成し、涎を垂らしつゝ、ゾロゾロとして町に繰込み来る。奸吏等が遠望したる暴徒の正体は、是なり、佐渡牛が海を渡りて来れるなり。