Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.11.27

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「”伊勢路をたずねて”参加記」

前 田 愛 子

1991.3『大塩研究 第29号』より転載


◇禁転載◇

  宮川橋を渡ると 道路の周辺には老杉が目立ち妻入りの古い家並が眼を惹く。旧参宮街道の尾部坂を登りきると、古市の旅寵「麻吉」はすぐだった。久保在久氏の運転する車に便乗させて貫った会員四名は、午後三時半宿に到着。まず千本格子の繊細な造りに息を呑む。明け放された正面玄関の大戸や、軒先に連なる招きの提灯。踏み固められた土間と、よく拭きこまれた上り框。それらを眺めているとふとタイムトンネルを潜って、江戸時代に迷い込んだ錯覚がした。玄間脇に「大塩平八郎研究会様」と、歓迎の大看板がかけてあるのを眼にとめ一同感激。早速その前で記念撮影となる。

  嘉永四年創業の麻吉は、間(あい)の山の斜面に建てられた木造五階の建物で、各階は昔ながらの幅の広い階段と廊下で結ばれ座敷に通じている。私達は支関脇の階段をあがって二階の座敷へ通された。町並の東方に聳える朝熊山を借景にした最上位の二階は、実際には五階ということになる。襖や障子をとり払った隣りの大広間は、まるで能舞台を思わせる様式ですっきりとしている。きけば昔、 この座敷で芸妓による伊勢音頭がにぎやかに踊られていたという。そういえば近くには、「伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)」の歌舞伎狂言で有名な油屋跡も残っている。古市が遊里として栄えたころには七十軒あまりの妓楼が軒を並べ、千人を超える娼妓がいたそうだ。けれど、人の流れの変った今ではすっかりさびれ、妻入りの家が並ぶ町とこの旅籠だけが、参宮街道としての昔日の姿を偲ばせてくれるのだった。

  戸外の眩しい陽ざしをよそに、広々した二階でたった五名で寛いでいると、とても資沢な気分がした。それに、自然の風の中に身を置き、裏山の老杉の林から聴こえてくるひぐらしの音に耳を傾けていると、時間が停まったような安らぎを覚える。九名の顔が揃った所で夕の宴となる。歴史研究者の話題はいずれも豊富で、元伊勢説など興味は尽きなかったが、紅一点??…の私は早々に階下の自室へ退却する。

  明けて七月二十一日。珍らしく早起き。お天道様がビックリして雨でも降らすかと思ったが、空は一点の曇りもなく今日も炎暑のきざし。朝食後、一行は麻吉の資料室を公開して頂き、古い宿帳や美術品の数々を見る機会に恵まれた。向江強氏の検証では、宿帳は明治期からのものしか残っていないそうだ。ただし、借用証の方は文政期からあるので、麻吉の創業は看板より古いのではないかとの話。酒井一氏が面白い資料をみつけられた。慶応元年に古市のお茶屋仲間が出した料金改定書それで、文面には諸色高騰の折柄、芸妓の線香代(花代)を銀四匁に改定するとの記述があった。「この花代は当時としても、仲々いい値ですよ」とは井形正寿氏談。余談だが現在の祇園の花代(二時間)は二万五千円也。これにチップなど諸費入要ともなれば、昔も今も所詮、芸伎は高嶺の花なのである。一方、年代ものの版木を手にした安藤重雄氏は、ティッシュペーパーにて拓本中。解読の結果は麻吉が贔屓筋に出す年賀状の木版で、毎年の使用に耐えるよう年号は明記されておらず、いかにも伊勢商人らしく合理的だ。

 やがて旅籠をあとにした一行は十時三分、五十鈴川駅に到着した男女九名の参加者と合流。閉散とした駅前からタクシーに分乗して朝熊山をめざす。久保氏は今朝も宿と駅を往復して参加者を運び、それに会計係とあって大忙しの態。日ごろから頑丈な身体と若さが武器の久保氏に、ここは目をつぶって勤労奉仕して頂こう。都合の良いことを願っている間に車は有料道路を疾走してほどなく山頂へ着く。昔の人が喘ぎあえぎ三時半は要した山道も、車だとわずか数分ほどで行ける。

  酒井一氏の案内で金剛証寺の山門をくぐり全員揃って連間の池を背景に記念撮影。かつて伊勢参宮が盛んになるに従い、神宮の奥の院として繁栄した寺の境内は広く、繁った老樹の間に本堂、開山堂、明星堂などが建っている。本堂前の水面には可憐な水蓮がピンクの花を開き、朱の太鼓橋と共に眼に鮮やかだ。また北峰にある奥ノ院への参道口には、老杉の根元に抱かれるかのように紫陽花が盛りの花を咲かせ、涼し気な風情で参詣者を迎えてくれる。うっ蒼とした参道の斜面は苔でおおわれ、伊勢国司北畠氏や、熊野水軍の名で勇名をはせた九鬼氏の供養碑が並んでいた。それらを過ぎると、両側に五寸角ほどの柱とまがう卒塔婆が林立して、草厳な眺めであった。この地が千古の霊場と称されるのも頷ける。

 秋から冬にかけて富士山を望み、東海十八州が見渡せるという展望台に立つと、眼下に雄大な伊勢湾が展がる。大小の島を浮かべた海は凪いでいた。大塩中斎が著書を納めに登った富士山は、湧き立つ雲の峰に遮ぎられて見えなかったが、対岸の東海地方を眺めていると、伊勢は昔から重要な地点であったと納得がゆく。朝熊の山頂で最も歴史の重みを感じさせてくれるのは、経塚群の遣跡附近ではなかろうか。金剛証寺背後の芝山にある素朴な鳥居の前で酒井一氏の説明を拝聴する。要約すると、この経塚は藤原末期から鎌倉初期にかけて営まれたという。明治二七年(一八九四)に陶経筒が発見されたがその後、伊勢湾台風のおり倒木を整理中、精巧な線刻をほどこした白銅鏡と共に、経筒や経巻などが出土したのである。陶経筒には承安三年(一一七三)神宮権禰宜荒木田時盛、渡会宗常の銘があり、神宮祠宮と仏教の関係がしられる。これらの事柄から、末法の世にさいし伊勢神宮と朝熊山を中心とする埋経信仰のあったことが判ったとの話だ。

 天保四年七月十七日。大塩中斎が富士登山からの帰途、朝熊山頂で著書を焚(や)いて己れの思想(こころ)を天に伝えたいと、思い立った心の動きもこの山頂に立って初めて理解できたのであった。

 昼食後、神宮文庫へ向う。酒井一氏のゼミの学生さんが車を三台出して下さったので久保氏の車とフル運転。これで参加者の足を確保。おかげで炎天下を歩く苦労もなく一同大助りだった。けれど時間に拘束されない習慣の私はいつも置いてきぼりを喰いそうになり、危ふい所で誰かの車に拾われる仕末。

 倉田山の東側に建つ神宮文庫は閑静な森の一画にあった。外宮から内宮へ通じる御幸通りに面した黒門は、もと神宮でも屈指の御師といわれた福島みさき大夫邸の門だという。棟上に大きな鴟尾(しび)を掲げている門を通りから眺めていると、御師の権勢の程が窺われる。御師といえば大塩挙兵当時、わずか二十歳だった安田図書も同職であった。足代弘訓の紹介で洗心洞に入塾した図書は、どのような思いで大塩と運命を共にしたのだろうか。黒門を入り、蝉しぐれの降りしきる石畳を踏んでゆるやかな坂道を登りつめると、雑木林の中に神宮文庫の庁舎があった。改装中らしく、建物の周りには鉄パイプの足場が組まれていた。けれど図書間覧室のガラスケースの中には、教学司の大垣豊隆民の御配慮を得て、大塩中斎の若書数点が展示されていた。平八郎と親交のあった伊勢の御師、足代弘訓の助言がなければ、この書もこうして見学者の眼に触れる機会も無かったに違いない。弘訓の諌めによって燔書を免れた著書は、百五十七年もの長い年月を経たにも関わらず、上梓当時の真新しさで大切に保存ざれていた。

 天保の昔、町与力として不条理な世相に直接、対決しなければならなかった平八郎は、伊勢路の旅で門人たちとどのような問題を語らったのであろうか。職を退き学を講じながらなお、上司の不正の数々を書き留めた彼の情熱は何に支えられていたのだろうか。つい先ごろ出版ざれた「大塩乎八郎建議書」を読んでいると、彼の精神の勁さにたじろぐ思いがする。平八郎は伊勢を訪れても足代の家にこもり観光ひとつしなかった、そう弘訓は書き残している。

 同じ倉田山にある神宮徴古館では、神宮に伝わる神宝類を拝観する。近代的な鉄筋コンクリート造りの館内は設備も行き届き、冷房が利いているのでありがたかった。展示品の宝物類には興味がなかったが、文政期のおかげ参りを描いた江戸期の風俗画はとても面自かった。様々な風態をこらした庶民の表情に活気があり、画面から今にも抜け出してきそうな気配さえして立ち去り難かった。しかし時問に急かされ次の見学地へ廻る。

 天保五年二月二十六日。平八郎が書院にて学を講じたといわれる林崎文庫跡は、内宮参道入口の西側にある。緑陰に恵まれた石段を登ると、土塀に囲まれて講堂と書庫が建っている。いかにも内宮祠官の学問所といった厳かな雰囲気の場所だ。大塩中斎の他にも伊藤東涯ら著名な学者が講義したと伝えられ、また彼らから献納を受けた多くの蔵書は、いまは神宮文庫に移されているという。休館のため門が閉まって内部に入れないので、低い土塀越しに往時の面影を追った。

 自然がそのまま残る内宮附近は炎暑もいとわず、参拝客の姿が多く見られた。ここには観光地にありがちな派手な広告も出店もなく、整然として気持がいい。宇治橋を青にしてのんびりした気分で、中之切町へ歩いて行くと、両側にみやげ物店や食堂が立ち並び、急に現代に引き戻された感がした。有名な餅屋、赤福の軒先にしつらえた縁台に腰をかけ、往来の人々を眺めながら宇治金時を口に含む。ツンと頭を刺激する氷の冷たさと、餅のまろやかな甘さが暑気払いしてくれる。車の機動力のおかげで、大塩ゆかりの伊勢路をとどこおりなく見学し、充ち足りた思いで夕ぐれの宇治山田駅から近鉄特急で、帰路についた。


Copyright by Aiko Maeda 前田 愛子 reserved
大塩の乱関係論文集目次

『大塩研究』第26号〜第30号目次

玄関へ