Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.8修正
2001.9.5

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「氷 室 の 狼 煙」その1

前 田 愛 子

1983.9『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 おのぶは部屋の隅にある鏡立ての前へ坐って手鏡の蓋をとると、髪を撫でつけ始めた。娘時分からことあるごとに、村の者たちから肌理(きめ)細やかな頬と共に褒めそやされた黒々した髪は、総領の治兵衛夫婦に子が出 来た現在でも充分に艶やかであった。
 時たまこの先にある枚方宿から訪れる髪結のお常は、一筋のおくれ毛も残さず結いあげたおのぶの丸髷を眺めて、「ほんまにお家(え)はんのおぐしは、結い甲斐がおますわ」
 と溜息をつくのが口癖だった。その褒め言葉に祝儀目当のお世辞がいくらか含まれていたとしても悪い気はしない。しかし、そんな自慢の髪に近ごろ一筋、白いものが目につく。
 夫が三年前に中気で倒れ、この夏に亡くなるまで看病したそのせいかも知れない。逆光の部屋の中で黄楊(つげ)の筋立てを手にして髪を直していると、いつ訪れたのか嫁の歌が隠居所の上り框(がまち)から声をかけている。降り続く雨で下駄の音が聴こえなかったのではなく、考えごとに耽っていたので歌が戸を開けたのも気付かずにいたらしい。
「歌さんかえ、お上がりやす」
 おのぶは手早く鏡に蓋をし、居間を出た。
「お出かけやとぱかり思いましたわ」
 歌は姑の姿を目にするなり雨に打たれた紫苑の花を差し出した。
「まあ、可愛らし」
 紫の花を好むおのぶは目許を緩(ゆる)めた。
「新兵衛はんが、向かいの田圃を見に行ったついでに川原で摘んできた言うて、たんと載きましたさかい、八重ちやんとこへも持たせました」
 この春から年季奉公に来ている少女の八重は、この屋敷より一段低い坂の下に老いた祖母と二人きりで住んでいるのだった。
「それはそれは――。所で新兵衛さんはまだ才治郎のところだすか」
 おのぶは陽焼けした男の広い額と高い鼻梁(びりょう)を脳裡へ浮かべながら厨(くりや)に降りて桶に水を張ると、さりげなく訊ねた。
「いえ、忠右衛門はんを訪ねるいうて、またすぐ出かけはりました」
 笑うと双頬に靨(えくぼ)の出る歌はまだいくらか稚さの残る頤(おとがい)を姑に向けて言う。おのぶと違って晩生(おくて)の歌は縁付いてきて三年目にようやく子宝に恵まれ、二月前に女児を出産したばかりであった。初めての子を産んで一段と肌に潤いが出 てきた歌は、縞木綿をぴちっと着付けた胸許が豊かに盛り上がり見た眼に弦しいほどだ。おのぶはそんな嫁の若さに密かに嫉妬しながら、急に気持ちの張りが失せるのを覚えた。心のどこかで新兵衛の訪れを期待して鏡の前に坐ったも、どうやら徒(いたずら)に終ってしまったらしい。
「お姑(かあ)はん、先前(さいぜん)、庭先で才治郎さんと新兵衛はんが話してはりましたのですけど、つい先ごろ甲州で大がかりな一揆が起きたということでござりました。なんでもえらい騒 動らしおす」
 歌は姑が花を活け始めた傍で今きいてきたぱかりの話を 披露する。
「郡内織りできこえたあの甲州でだすか」
「はい。甲州はお江戸を守る要地として、幕府の直轄地やのに、そこで一揆が起きたとは幕府の権威も落ちたものやと言うてはりましたわ。なんでも首謀者のひとりである兵助とかいうおひとが、未だに捕われんと逃げ続けていはるとかいう話でござりました」
 郡内地方はもともと山国で水田が乏しく、百姓たちは養蚕や絹織物に携わることで生活(たつき)を立て買米で用を足していたが、打ち一続く凶作に加えて、郡内地方の富豪が米を買占め売惜しみしたので、事態はいっそう深刻になっていったのである。
「打ち毀しを始める前に、重立ったおひとが富商の家へ掛合いに行かはりましたけど、てんで相手にしなかったとか。けどさしもの一揆も弓や鉄砲を持った幕吏に押しまくられて、二百人からの百姓が捕われたということでござります」
「そうだすか。近ごろは物騒な話ばかりでほんまに気が滅入りますなあ」
 おのぶは祇園祭りの月鉾にも似た形の良い眉を寄せて言う。歌はそんな姑に頷き返しながら再び先を続けた。
「郡内だけやのうて、この大坂でも米の競り買いを禁止しておりますのに一向に効き目が無く、米の価は鰻のぼりの高値でござりますもの」
 読み書きの達者な歌は、夫の治兵衛の許へ廻されてくるお上の支配文書を綴じ込んでいるので、その方面の知識も豊富であった。それにこの家で一番勢力を張っている姑のおのぶが、日常茶飯の話題よりもっと広い世界に興味を持っているのを良く承知していたので、努めてその方面の話を集めているうちに、歌自身も御政道向きの動向に関心を覚え始めていた。丸顔の頬を紅く染めて新しい話を語り尽した彼女は、やがて娘のハルに乳をやらなけれぱと思い隠居所をあとにした。
 歌を見送ったおのぶは紫苑を活けこんだ竹筒を床の間へ置き、所在なげに縁先へ佇んだ。背後に山林を負った治兵衛屋敷は丘の中腹に建っているので、ここに立つと村が一眼で見渡せる。おのぶは雨飛沫(しぶき)が足元に降りかかるのも構わず、眼下に白く光って流れる穂谷川へ視線を馳せた。
 生駒山系の麓にある谷頭の穂谷村はこの村のすぐ上(かみ)にあり、そこから流れ出る谷川は眼下に展がる尊延寺村の真中を縫ってすぐ川下の杉村へ流れこみ、一里半ほど先の枚方宿で大川〈淀川〉ヘと注いでいる。草深い山間の寺村が見た目より大きく感じられるのは、豊かな流れとそれを利用した水車のある風景かも知れない。
〈新兵衛はんは忠はんに、どないな用がおありなのやろか〉
 おのぶは男の孤独な後姿を思い浮かべながら、黄ばみ始めた木立の間から谷ひとつ隔てた向い側の忠右衛門宅へ眼を移した。自作農の忠右衛門はおのぶより二つ年上だったが、寺小屋で互いにたけくらべしながら手習いをした仲だ。
 村役人を勤めていたおのぶの父親は、将来この家を継ぐ一人娘に男児並の教育を身につけさせるために、五歳の正月から村の山懐にある〃池の坊〃ヘ通わせたのである。真言宗尊延寺は十八院坊を塔頭に持つ七堂伽藍の大寺院であり、池の坊はその諸坊中のひとつであった。幼い時分のおのぶは読み書きばかりでなく、「お家(え)はん」として恥ずかしくない女性になるために立居振舞は勿論のこと、礼儀作法、お茶やお花と子供らしく遊ぶ暇もないほど稽古事に追われて育てられたものだ。成長するに従うて利発さを発揮するようになったおのぶは、どちらかといえば男に縋って生きるよりは先を歩くような性格の娘になっていた。
 十六歳の春に五つ年上の夫と縁談があった時、おのぶは 気弱気な男の屈託した昏(くら)い表情に心惹かれた。長男に生まれなかった男は、百姓の家へ養子に行くより外は自分を生かす場所がないのだろう。おのぶはそんな相手を目の前にして、なんとかその眼を生き生きさせてやりたいと思った。けれども女の旺盛な生活力は男の側に依頼心を肥らせたに過ぎない。この村から枚方宿へ向かって一里ほど先にある春日村の百姓、三郎兵衛の次男であった夫は、富裕な農家の聟に治まってしまうと畑作に手を拡げることもなく、あり余る若さのはけ口をおのぶの女体に求めてきた。
 やがて二人の息子が生まれ、先代の治兵衛が逝った後でも野望を持つこともなく、穂谷川へ釣りに行ったり、近所の碁打ちの所へ出かけたりして日を過ごしていた。おのぶは初めのうちこそ夫に期待を寄せていたが、いつしかそれも諦らめるようになってしまった。
「あんさんには覇気いうものがおへんなあ。もうちょっと欲いうものが起きまへんか」
 三十代の頃にはそんな嫌味のひとつも口に出すようになっていた。
「食べるに余るのに、これ以上なにが必要やというのや。身代を減らさなんだらえやないか」
 人当たりの良い夫はやんわりとそう返すと、一杯の晩酌で鼾をかいて寝入ってしまう生活に馴れていた。そればかりか夫が壮年に達したころ幕府が株仲間を公認したため、綿や菜種を生産している大坂近郊の百姓たちは、市内の特権商人の買叩きに遭って手酷い打撃を蒙った。この地方でもそれまでは大よその相場で大坂市中へ出荷し、有利な条件で自由に取引できていたのが急に出来なくなって大騒動が起きた。そのため文政六年(一八二三年)には摂津や河内の百姓が連合して立ちあがり、流通の自由化を要求して問屋側を相手どり、大坂町奉行所の白州で争ったものだ。その折のことだ。
 問屋側の独占に対して〈国訴〉と呼ばれる経済闘争を展開するのに、この話の纏め役として忠右衛門が治兵衛を訪ねてきた。彼はおのぶ夫婦の前で、幕府直轄地と大名・旗本などの私領地が入り組んだ支配のもとで閉鎖的な百姓の八割が困難を乗り越え、名を連ねているのだと言い協力を求めたのだった。しかし夫は彼の粘り強い説得にもかかわらず、
「公事訴訟を起こしてまで問屋と争うやなんてかなわん百姓は何事も時勢に寄り添うて暮した方がえやないか」そう答えたものだ。けれど後に摂津・河内の千にのぼる村々の百姓が連合し、村の百姓の意見も国訴の方向へ動き出すと、夫は最初(はな)からそれに賛同していたかのような態度を示したのである。結果は木綿については請願が叶い相場は元に戻ったが、菜種については暮府の政策上成功しなかった。この事件を通じておのぶの夫への気持は更に冷えた。失望はやがて軽蔑に変ったが、それを相手に見せることなく表面は一家の主としてどこまでも夫を立て通したのだった。
 先程から縁先へ立って村の景色をぼんやり眺めていたおのぶは、背筋にぞくりとする冷えを覚えて居間へ引き返した。部屋の中は小熄みなく続く雨で昼間だというのに仄暗い。おのぶは居間の隅に置いてある木綿機を織り始めながら、新兵衛が初めておのぶの前へ姿を見せた日のことを甦らせた。



  Copyright by Aiko Maeda 前田 愛子 reserved


「氷室の狼煙」目次その2

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ