Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.9.8

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「氷 室 の 狼 煙」その2

前 田 愛 子

1983.9『文化評論』より転載


◇禁転載◇

 それは一年ほど前の夏の終りであった。十八歳の誕生を迎えたばかりの次男の才治郎が、大坂からひとりの男を連れて帰村した。
「前(せん)から男手が欲しいと言うてはりましたさかい、新兵衛はんに無理頼んできてもらいましたのやで」
 息子は母親のおのぶより三、四歳は若いと見受けられる男を引き合わした。
「新兵衛と申します、よろしく」
 男はにこりともしないで挨拶した。おのぶはそれに眼で応えながら、新兵衛が作男の藤助と裏の納屋へ去ってしまうのを見届けると、待ちかねたようにして息子へ訊ねた。
「あの男、まさか江戸から検見のめぬきにやってきたのではおまへんやろな」
 領主の永井讃岐守が水害による年貢の割引きを百姓に言わせないため、米の収獲前に密かに差し向けた役人ではないかと勘繰った母親を見て、才治郎は思い違いも甚だしいと声を立てて笑った。
「これ、笑いごとやおへん。もし隠密でしたらえらいことでおます」
 村では天候不順の凶作を見越し、年貢米をこれ以上に増やされては死活問題にかかわるとして、庄屋の治五平を通じて船橋陣屋の方へその旨を願い出ていたのである。
「新兵衛はんは杉山三平さんと同じ目に遭うてきなはったおひとだす」
 才治郎は母親の疑念を晴らすために真剣な眼差しになる。
 東海道五十三次の続きとして京都から大阪へ行く道を京街道と言ったが、この村の先にある枚方宿は東海道五十六番の宿として京、大坂のほぼ中心にあった。枚方宿の次に東海道五十七次の宿として守口宿がある、そこの本陣近くで古手屋と質屋を手広く営んでいる親戚の白井家当主、孝右衛門は、河内の衣摺村から聟養子としてはいっていた。その彼と幼友達の杉山三平は衣摺村で熊蔵と呼ばれ、淀藩稲葉丹後守領分の庄屋を勤めていたのだが、半年ほど前に取潰しになり村から追放されてしまった。原因は年貢米をめぐって代官所の役人と敵対し、役人の逆恨みを買ってありもしない罪に嵌(はま)ってしまったのだった。衣摺村ではそれより七年前にも代官所の支配に百姓たちが抵抗した事件があった。当時、庄屋を勤めていた孝右衛門の兄政野重郎右衛門はみせしめのため首を斬られ、同時に三百年も続き苗字帯刀を許された政野家も欠所になってしまったのである。そんなことから孝右衛門は、親交のあった熊蔵が役人に狙われて逃亡しているのを知ると捜し出し、今では自宅に匿って家業を手伝わしている。杉山三平というのは村を追放されてから改めた名前だ。新兵衛は三平と親交がある関係から才治郎の生家へきてくれたのだった。
「新兵衛はんは加賀の金沢の出やけど、村を追放されてからあちこちで働いてきはりましただけに、畑作にかけては仲々のおひとだす」
 息子は新兵衛の視野の広さと剛毅な精神を買っているのだと青年らしい熱っぽさで語った。総領の治兵衛と四つ違いの才治郎は、父親より母親の血を濃く引いたらしく、利かぬ気で鋭敏な頭脳の持主だった。そんな才治郎が十四歳になった時、守口の孝右衛門は、
「これからの百姓には学問が必要だす。そうでないと問屋相手の争いには太刀打ちでけまへんで」
 そう言って才治郎を大塩平八郎の私塾、洗心洞へ行かせるよう勧めた。平八郎の門人でその片腕とも称されている孝右衛門は、一人息子の彦右衛門を幼時から平八郎の許へ入門させ、内弟子として住みこませていた。そればかりか自宅の離れに平八郎の出講義の場を設け、より多くの百姓が学べるようにと心を砕いていたのである。孝右衛門に言われるまでもなく、文政期の国訴の高まづを身近に見てきたおのぶは、新しい時代に対応して行くにはその判断の基になる学問がどれほど必要かと痛感していた。そうしたことから夫と相談の末、天保二年(一八三一)に次男を洗心洞へ入門させた。
 大坂町奉行所与力で能吏のきこえが高く、著名な陽明学者であった大塩平八郎は文政十三年(一八三○)に与力の職を退いてからは中斎と号し、学問、著述に専念する傍ら天満の自宅に塾を開き学を講じていた。門弟には与力、同心およびその子弟をはじめとした武士階級は勿論、大坂近在の百姓が多いことでも特色があった。「人の上に立って行政をすすめる者は、常に民、百姓を憐れんでやらんといかん」と言って百姓の側に身を置く師の人柄は、孝右衛門の妻たつから折に触れてきかされていたので、才治郎を預けるについては何の心配もなかった。息子はそれ以来ずっと洗心洞へ寄宿し、農繁期だけ生家に帰ってきている。
 才治郎が新兵衛を伴ってきてからの月日は過ぎてみれば速かった。新兵衛は息子が初めに紹介した通り、菜種や米の栽培に関じて仲々すすんだ考えを持っており、それを実行する活力も充分に備えていた。
「唯くりかえすだけの経験主義てなく、高収益をあげる作物を目ざすべきです」
 新兵衛は天保期にはいってから摂津、河内以外に、美濃や尾張などの地方で綿業が発展したことによって、畿内の優位性が揺らぎ始めたのを例にあげながらこれまで続けてきた棉作を米や菜種作へきりかえてゆくよう奨めた。しかし総領の治兵衛は初め百姓らしい警戒心て耳を貸そうともしなかった。けれども幕府が田方(たがた)棉作にたいする不作時の減免措置を廃止すると、改めて新兵衛の説を尊重するようになり、近ごろでは自分から何かと相談を持ちかけていた。それにおのぶ自身も、百姓たちの利益を守って所払いになった男の浮沈の生活を想うと、たとえ僅かでもその負担を軽くさせてやりたいと思うようになっていた。
 おのぶは紫苑の花をくれた男の面差しを機の布目に織り込むかのように、踏木を足で交互に踏みながら箴を手前の方へ力強く打ち込んだ。



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