Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.8訂正
2002.3.15

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「高橋九右衛門長男栄作の足跡を辿る 」
その1

前 田 愛 子

1981.3『大塩研究 第11号』より転載


◇禁転載◇

 かつて大隅半島と陸続きであった黒潮洗う種子島に、高橋九右衛門の長男栄作が流されたのは、天保十一年四月一日朝であった。十五歳にはまだいくらか間があるというのに、父の科を受けた彼は大塩事件の三年後、淀の川口から五百石程度の流人船に乗せられて薩南の流刑地へ送り出されたのである。

 それから百四○年後の春、わたしは栄作の足跡を追って鉄砲伝来の地として名高い種子島へ旅立った。栄作が一週間近くかかってようやく辿り着いた遠い南の島も、現在では飛行機でわずか二時間十分で行ける。本当は栄作と同じように船旅にしたかったのだけれど、二八時間も船に揺られる自信がなかったのだ。大阪から一日一便が着く種子島空港へは徳永逞氏が出迎えて下さった。氏は栄作の娘チヨにつながる血縁から、大塩事件研究会成立を新聞紙上で知ると、直孫が今も種子島の安城に住んでおられるのを会の事務局へ御一報下さった方である。会長の酒井一教授から徳永氏の住所を教えて頂いたわたしは不躾に電話して、栄作の住んだ安城への案内を乞うたのだった。

 先年、政野敦子さんが白井孝昌氏と屋久島調査へ赴かれた際、時間的な都合で渡航を断念された種子島へ一人で行くのはいくらかのためらいがあった。しかし徳永氏の暖かい電話の声に励まされて大阪をあとにしたのである。出発前お互いの特徴を確認し合った時、

「わたしゃビンタが禿げとりもす。」

 受話機の向こうで磊落に答えられた徳永氏の言葉を手がかりに空港玄関に立つと、黒いベレーに白のウールジャケットを小意気に着こなした初老の紳士が出迎えの群のなかで一際(ひときわ)目立っている。それが徳永氏であった。不動産業という職業とはおよそ縁遠い、どちらかと云えば文化人といった感じのする氏の車で、空港から真すぐ安城へ向う。

 大阪を発つ時、木々は芽を吹いたばかりで冬の衣を脱ぎ捨ててはいなかったが、ここ砂丘の島では草木が繁り道路脇には桃色のつつじや、自生の白百合が雨に打たれて咲き競っている。関西は雨の少い季節だったが、こちらは木の芽流しといってちょうど田植の時期に這入っていたのである。

 鹿児島市からおよそ百一五キロの南方洋上に浮かぶ種子島は周囲百五○キロ、全長五五キロと丘陵性の南北に細長い島だ。その島のほぼ中央に位置する中種子町の空港から、山手丘陵を貫く自動車道路を抜けて栄作が住んだという安城へ向うと、濡れた芭蕉の葉は 翠の翼を広げ、蘇鉄が針の葉を光らせる。人家の途絶えた道には往き交う人も対向車も無く、なんとなく人恋しい。つい三時間ほど前に鉄とコンクリートで固められた大阪の街から車の洪水を縫って、伊丹空港までやってきた目には別世界に迷いこんだ感じさえする。潅木の鮮やかなみどりやなだらかな起伏の丘に目を和ませているうちに、車は何時の間にか東海岸へ出ていた。車窓の右手に利休ねずみに煙った太平洋の海原がどこまでも拡がり、珊瑚礁の磯には白い波しぷきが飛び散る。荒れた海の景観に目を奪れれていると車が急に止まった。見ると先への道路は補修工事で通れそうにもない。米船カシミール号の漂着地として知られる安城では、栄作の直孫である武田永美氏が忙しい田植から抜け出してわたしの到着を待っていて下さるというのに。止むなく途中で電話を探して断って載き、ひとまず徳永氏の住居がある西之表市へ引き返すことにする。

 樹木の生い繁る間道を突き出て今度は海岸線を左手に北へ進むと、広い砂浜の渚には波が寄せては返している。浜ヒルガオの咲く海岸の彼方には魚の宝庫である馬毛島が、近々石油基地になるのを悲しむかのように灰色に沈んで見え、その向うには東シナ海が涯しなく続いている。一方、砂丘の山手は樹林が密生し、その手前に根を張る低い潅木は荒西風に逆い切れず、枝葉をすべて南東の方に向けている。

「雨がなければ紺碧の海が素晴らしいのに。」

 ハンドルを握った徳永氏がさも残念そうな声でつぶやかれる。やがて西之表港の近くまでくると街並がつらなり、白砂の渚も埋立られている。

「種子島の海はまだ自蘇作用しておるのに、埋立など してしまって―。』

 徳永氏は怒りを抑制した口調でそういわれた。島の表玄関として本土へ開かれた唯一の港は、繁栄という切符で市街地を手に入れた代りに自然の海を失いつゝあるといえよう。

 ともあれ天保十一年四月八日午後五時、栄作が着いたという西之表港にほど近い徳永氏のお宅へお邪魔する。海を見下ろす台地の一角に築かれた住居の庭先には藤の花が房を垂れ池には緋鯉が泳いでいる。それらをひねもす眺望できる部屋で九一歳のアキさんは今も健やかに暮しておられる。徳永逞氏の御母堂アキさんは栄作の娘チヨとは嫁姑の関係にある。チヨの長男祐彦へ嫁いできたアキさんは、姑のチヨから折にふれて聞かされた話を穏やかな表情で語って下さる。

「栄作はのう。十五歳になるまで三尺の牢にいれられたなれば、種子島に流されてきた時はのう。全身に牢ガサが出来ていたとな」



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「高橋九右衛門長男栄作の足跡を辿る」目次その2

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