Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.8訂正
2002.3.16

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「高橋九右衛門長男栄作の足跡を辿る 」
その2

前 田 愛 子

1981.3『大塩研究 第11号』より転載


◇禁転載◇

 大柄な栄作はいたって丈夫で性格も温厚だったという。種子島の北部、西海岸に面した西之表港へ着いた栄作はその夜は北種子村役場に引き渡され一泊。あくる朝そこから三里先の現和村へ送られた。荒磯の東海岸を背にした現和村はちょうど西之表の裏側にあたり、当時は辺鄙な農村であった。支配役場へ身柄を預けられた栄作は走り使いとして働き、五年後さらに南にある安城村へ移された。そこで五年間つとめあげた彼は、日用品の行商で独立した生活を始め、二七歳の年に一里半ほど難れた立山部落の武田家に養子として迎えられ、後家のカメと結ばれた。身分差別の厳しい封建時代に流人の栄作が士族の武田家に迎えられたという事は、栄作自身に罪が無かったという点もあるが、彼が人間としても立派だったからであろう。

 当時の種子島家譜を調べてみると「公儀の流人摂津伊丹の卯吉しばしば窃盗す、故に之を獄に下す」と記述が見られる。その他にも米を盗んで腰刀で傷けられた者などの名が挙げてある。これらの事例から推察すると島の食糧事情はずい分と厳しかったのだろう。そうした島の暮しのなかでなんの後楯もない栄作が自力で生き抜くのは並大抵の苦労ではなかったに違いない。

 栄作の妻カメには亡くなった先夫周右衛門との間に二人の娘があったが、栄作との間に栄助、チヨと一男一女を儲けている。栄作はようやく安定した生活のなかで明治を迎えると、三十年振りに故郷の門真三番村へ戻っている。すでに母てるは亡くなっていたが、親戚に歓待されて六ケ月すごした。妻や子の催促で再び種子島に帰った栄作は胸を患い、翌年の明治五年二月八日四六歳で死去している。成人した長男の栄助は立山小学校の教員を勤め、妹のチヨは同じ安城の下之村、徳永只次に嫁いでいる。

「しかし栄作は流人だったので、士族の武田家には入籍できなかったのですよ」

 アキさんの傍から息子逞氏が言葉を添えられた。戸籍をみると栄作の子である栄助とチヨは、前戸主亡父武田周右衛門の子として届けられている。従って栄作の死亡届も大阪へ送られ、門真の高橋家の戸籍に記載されている。
 「アキの母トメは蒲生彦四郎の妹なんですよ。トメは西南の役後種子島へ養女として貰われてきたそうです」
 蒲生彦四郎といえば一昔前の島津城下では名を知られた武士である。彼は西南の役で敗走した西郷隆盛が城山に立て籠った時、狙撃隊長として二二名の隊員を率いて西郷の護衛を務め、城山が官軍の手に落ちる前に二八歳の若さで自決し果てた人物だ。わたしは敗者同志の結びつきに奇しき因縁を覚えながら、童女のように頬を紅潮させたアキさんを眺めていた。彼女の母トメも栄作同様、男たちの止みがたい挙兵のために、余儀なくこの島に流れてきた女性なのだ。城下武士の家に育ち人々に「ごゆうさあ」(おじょうさま)と呼ばれた生活から島の百姓の娘として暮らすことになったその女(ひと)の身上を思うとそこにひとつのドラマを感じて口が重くなる。

 始終、笑顔を絶やさず栄作のことを語って下さるアキさんは、浜風に鍛えられた小麦也の肌が艶やかなのでとても九一才とは思えない。かつて姑のチヨと住んた家を立山に残して、息子夫婦と西之表で住む彼女の老後は 豊かな人情と恵まれた環境の中で充ち足りているのだろう。

 徳永宅を辞したわたしは西之表港をすぐ眼下に見降ろす台地に建てられたホテルヘ着くと、連続して降り続ける雨の中をすぐ背後にある赤尾木城跡へ出かけた。宿舎の植込み抜けて通りへ出ると、港へ降りて行く坂の すぐ左側に、空を覆うかのようにしてガジュマルの樹が青々した葉を繁らせている。ひと抱えもふた抱えもある幾筋もの気根をくねくねと垂らした樹は、別名を赤尾木とも榕樹ともいい、この地に多くあったので城の名もそう呼ばれたのだという。浜ヒルガオの蔓の這う城壁を両側に眺めながら急な坂を五分ほど登りつめると、やがて目の前に犬馬場跡の広い道路があり、その向うに城址の高い石垣が見えた。石段を上がると種子島家十四代時尭(ときたか)並びに十六代久時が住んだ城址には、榕城中学校が建てられている。今は校庭になった居城址に立つと、大阪これより北東一○六○キロと矢印の標識が目についた。

 栄作が初めて到着したという城下町を見降しながら、わたしは彼の五十年にも満たない短い生涯を或る感慨を持って思い出していた。年間の平均気温が十九度といわれる温暖な気候のこの島も、十二月末から二月までは風速二十メートルの西風が吹き荒れ、海鳴りの音が轟く。見た目に美しい海岸線の白砂も冬場にはつぶてになって島の人々の肌を射るのである。水田の少い砂丘の島では甘藷や砂糖黍が年貢の対象であったろうし、そうした人達を相手にした栄作の行商も食うや食はずの生活が続いたのだろう。

 河内国茨田郡門真三番村の富農であった栄作の父高橋九右衛門(高橋九良右衛門が本名)は、天保五年頃から白井孝右衛門の口利で大塩邸の勝手向きの世話をしており、平八郎の挙兵にあたっては終始その中核となった人物である。村の旦那衆であると同時に平八郎の門弟として深い教養を身につけた父に育てられた栄作は、言葉も風俗も異なる孤島に流されてきてどのような思いで日びを過したのだろうか。両親と三人の姉に慈しまれながら跡取り息子として何不自由なく育てられた栄作にとって、島での暮しは耐え難いものがあったに違いない。唯、昔から外国との交流があった種子島では島津城下ほど排他的ではないので、それが栄作にとってはせめてもの救いであったろう。そう考えながらわたしは暮れなずんで行く海を見詰めていた。



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