1981.3『大塩研究 第11号』より転載
屋久島の旅を終えて鹿児島市へ廻ると、市内は中国大陸からの黄砂で霞がかかったようだ。けれども陽光は明るく歩いていると汗ばむほどだった。
武田守男氏のお住居は赤いつつじの花で埋まる市庁舎のすぐ近くにある。徳永逞氏が電話運絡していて下さったので、守男氏は初対面のわたしを快く迎え入れて下さる。応接間へ通されて旅の疲れを癒やしていると、氏は
父上の盛永氏が子孫に書き遺されたという「盛永調書」を奥の部屋から手にしてこられた。
「父が生きておりましたら、大塩事件研究会が出来たことをさぞ喜びましたでしょうに。どうぞこれをお持ち帰りになって、ゆっくり目を通して下さい」
守男氏は物静かにそう云うとわたしの前へそれを差し出された。親から息子へ渡された和紙の綴りを目にするとわたしの心は躍る思いだった。宿舎へ帰って読むという余裕もなく夢中で頁を繰る。
「我が祖先の系図を調べて見るに、高橋家より武田家に伝わる其の由来を尋ねれば、高橋九良右衛門は大塩の一党となって民を救い飢餓を免れしめたるにもかかわらず、其の長男を一孤島南端の種ケ島に流人したるは何事ぞや。
大坂北河内郡門真三番高橋九右衛門は天保五年四月一日から大塩平八郎の洗心洞塾に入門し陽明学を学ぶ事にした。当時塾は新旧の両塾に分れ、鏡中観花館と題する額があって塾生は之に出入する事を許されなかったが、九右衛門は勝手に出入も許され、会計として平八郎の信用を得た。当時は陽明学者としては中江藤樹、熊沢蕃山、大塩中斎(平八郎)であった。天保八年平八郎は、庶民の窮乏するも反省せざる幕府の政治に対して正面から反抗し、再三、幕府に窮民救助の交渉するも応ぜざる為、致しかたなく百姓一揆を起す事を決心した。此の原因は平八郎檄文大要に記載しあるが如く、天保元年より七年迄飢饉続き、平八郎ば家財書類を売却して窮民を助けしも資力続かず、門徒を集めて挙兵を起す事を決心し門徒に相談して皆の同意を得、而して連判状に記名調印したのは天保八年一月二十八日であった。愈々準備にかゝり同年二月十八日九右衛門は施行引札広告を三番村に配布して、帰りには酒肴を買って常にない様子で帰った。其夜は家族楽しく盃を交して床に就いた。翌十九日早朝妻てるをおこし、委細を話し暴動に参加するは飢に泣く細民を救助する大塩一党とし今朝出発するから、御前は子供を大切に成長させてくれ、自分は一身一人のみならず血族の禍
を犯し相済まん事だが許してくれと話し、妻の申言も聞かず、着込野袴刀を帯び身支度をして神前に合掌、子供の寝顔をのぞみ妻に別れを告げ、草覆をはき殺気天を貫くの形勢で出発した。
時は二月十九日朝の一時であった。大塩邸に着いたのは朝五時、主立つ者は二十名、集まる同勢三百余人、白木綿の鉢巻で身仕度を整ヘ、合図の鐘と共に一党は旗四本を押立て屋敷の塀を引倒し、火を放った。九右衛門は大砲の係であったのであたりの屋敷へ打込み天満へ出立。到る処へ大砲火矢を投散し皆抜身の長刀を振廻し、市内は見る見る大火災となったが、大塩党兵力少く幕兵に敗れ、タ刻一党は引揚げ、河岸に繋いである小船を見付けてとび乗り船頭を脅し、中流に出で着込槍等を水中に投じ川中を彷徨して居たが、船頭が上陸してくれと度々迫るので平八郎は九右衛門に命じ金二両を船頭に与えた。九右衛門は船頭に向い、御苦労であったのう、いかい世話になったのう、御前の名はなんというかい、すみません直吉と申します船頭はそう答えて金子を受けとった。
上陸した平八郎は皆に向い我が一党は全く敗れ挫けた。主謀たる自分は天をも怨まず人もとがめない。只気の毒に堪えないのは親戚故旧友人徒弟たる御前方である。自分は御前方に罪を謝する。どうぞ此を最後の団欒として袂を分ちて、各々潔よく処決して貫いたい。此度の企ては残虐を誅して禍害を絶つと言う事と、私蓄を発いで陥溺を救ふ言う事のニツを志したものである。同志の者は此の場で切腹せんとしたが、平八郎訓したので之れを止め、思い思い勝手に袂を分ち立ち去る事にした。
九右衛門は平八郎の義理の父柏岡源右衛門と天満橋北詰に上陸し両人は高野山真福院を頼る事として二十日夜五ツ頃同院に致着、住持歓応は何心なく宿泊せしめた。二十二日に至り二人は帰る事にし、旅費二分宛を借り、所詮罪科遁れ難しと覚悟して二十五日平野郷に着き、此処にて涙を流し袂を分ち、銘々支配役場に自首する事にして別れた。」
このあと調書は栄作の記述に移るが、冗長になるので栄作の荷物に関する部分のみ抜萃する。
「翌日荷物が来た。村の人は物珍らしく見物人が多い。牛が引いてきた巾三尺、長さ一間の長持であった。やっとのことで室内に入れて貰い、開けてみれば、衣類、食料其他である。母、親戚の土産、当分の食料が入っている。」
やはり道中長持は十七個でなく一個だったのである。また現和村の支配役場で使い走りをするようになった栄作は、四月のち西之表の役場へ手紙を届けに行った帰り、鹿児島行きの船に乗り込み、荷物の陰に隠れて島抜けを試みたが、みつかって下船させられている。屋久島のように三年に一度の割で流人船がくるか、鹿児島から交替の役人がやってくる以外は船の便が無かった島と違い、西之表は京、大坂などへも交通の開かれた港だったので、十五歳の栄作にとっては望郷の念も堪え難かったのだろう。
盛永調書には安城で判らなかった栄作の戒名も「釈浄道」と述べてある。父高橋九右衛門については門真三番村信行寺の過去帳の天保八年の項に次の様に記されている。
「釈光尊、高橋九右衛門事、天保八酉年二月十九日与力大塩平八郎乱を大坂に起せし時、一味として捕られ入牢し、同年三月廿五日牢死す。法名後年改め付けるものなり。ここに記す。」
調書によると栄作は安城に菜種をひろめた人物でもあるという。大塩事件に連座した父の科を受けて種子島へ配流された栄作の復権を願い、一人こつこつ祖父の足跡を書きとめておかれた盛永氏の思いが、わたしのそれと一筋の流れになって繋り目頭が熱くなる。種子島から屋久島、鹿児島市へと辿ってきただけに、頁を繰る感激もひとしほであった。
武田盛永氏は種子島で育ち、若い時分は大阪天満郵便局へ勤務し、のち故郷の西之表役場へ勤められたという。その頃から栄作の事に手を染められたらしい。
守男氏はついでに栄作が配流されたため、養子をとって高橋家を継いだ妹フジ一家の写真を下さった。フジは栄作と異なり長命で大正六年に八四歳で亡くなっているので、この写真はたぶん明治の終り頃と思われる。フジの面立ちは瓜実顔の穏やかな感じで、頬からおとがいにかけての線が特に美しい。眺めていると目の前の守男氏と良く似通っている。栄作も島での苛酷な生活が無ければ、胸の病いで短い生涯を終えることもなかったろう。
種子島の調査を終えたわたしの許へ後日、徳永逞氏から古稀を祝って出版された歌集『種子ケ島びと』が届いた。それによると氏は生萌という雅号を持つ水甕の古い同人であり、西之表町議員並びに地区労議長などを歴任されてこられた文化人であった。
政治の刷新をはかるため挙兵し、幕藩体制に体当りした高橋九右衛門の熱い血は今も子孫のなかに脈々と流れ続けているようである。それは次にあげる徳永氏の歌にも汲みとることが出来よう。
田掻く馬押えられつつ国税徴収法第三章二十一条は術なかりけり(『昭和万葉集』収載、講談社刊)
減反の農政呪咀の声みちて村の稲田は又荒れゆかん
『種子ケ島びと』より
本稿を草するにあたり、調査、資料の点でなにかと御教示戴いた徳永逞氏、武田一族の方々、並びに鹿児島市立図書館郷土資料室、種子島民俗資料館、以上の方々に謝意を表す次第である。
参考文献 大隅三好『流人の歴史』 徳富猪一郎『近世日本国民史文政天保時代』 『種子島家譜』第四巻(廿三代久道名跡五十三) 『門真町史』〈昭和三七年刊〉 武田盛永調書〈昭和二九年十二月十五日〉