Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.8訂正
2002.3.23

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「高橋九右衛門長男栄作の足跡を辿る 」
その4

前 田 愛 子

1981.3『大塩研究 第11号』より転載


◇禁転載◇

 屋久島の旅を終えて鹿児島市へ廻ると、市内は中国大陸からの黄砂で霞がかかったようだ。けれども陽光は明るく歩いていると汗ばむほどだった。

 武田守男氏のお住居は赤いつつじの花で埋まる市庁舎のすぐ近くにある。徳永逞氏が電話運絡していて下さったので、守男氏は初対面のわたしを快く迎え入れて下さる。応接間へ通されて旅の疲れを癒やしていると、氏は 父上の盛永氏が子孫に書き遺されたという「盛永調書」を奥の部屋から手にしてこられた。

 「父が生きておりましたら、大塩事件研究会が出来たことをさぞ喜びましたでしょうに。どうぞこれをお持ち帰りになって、ゆっくり目を通して下さい」

 守男氏は物静かにそう云うとわたしの前へそれを差し出された。親から息子へ渡された和紙の綴りを目にするとわたしの心は躍る思いだった。宿舎へ帰って読むという余裕もなく夢中で頁を繰る。

 このあと調書は栄作の記述に移るが、冗長になるので栄作の荷物に関する部分のみ抜萃する。

 やはり道中長持は十七個でなく一個だったのである。また現和村の支配役場で使い走りをするようになった栄作は、四月のち西之表の役場へ手紙を届けに行った帰り、鹿児島行きの船に乗り込み、荷物の陰に隠れて島抜けを試みたが、みつかって下船させられている。屋久島のように三年に一度の割で流人船がくるか、鹿児島から交替の役人がやってくる以外は船の便が無かった島と違い、西之表は京、大坂などへも交通の開かれた港だったので、十五歳の栄作にとっては望郷の念も堪え難かったのだろう。

 盛永調書には安城で判らなかった栄作の戒名も「釈浄道」と述べてある。父高橋九右衛門については門真三番村信行寺の過去帳の天保八年の項に次の様に記されている。

 調書によると栄作は安城に菜種をひろめた人物でもあるという。大塩事件に連座した父の科を受けて種子島へ配流された栄作の復権を願い、一人こつこつ祖父の足跡を書きとめておかれた盛永氏の思いが、わたしのそれと一筋の流れになって繋り目頭が熱くなる。種子島から屋久島、鹿児島市へと辿ってきただけに、頁を繰る感激もひとしほであった。

 武田盛永氏は種子島で育ち、若い時分は大阪天満郵便局へ勤務し、のち故郷の西之表役場へ勤められたという。その頃から栄作の事に手を染められたらしい。

 守男氏はついでに栄作が配流されたため、養子をとって高橋家を継いだ妹フジ一家の写真を下さった。フジは栄作と異なり長命で大正六年に八四歳で亡くなっているので、この写真はたぶん明治の終り頃と思われる。フジの面立ちは瓜実顔の穏やかな感じで、頬からおとがいにかけての線が特に美しい。眺めていると目の前の守男氏と良く似通っている。栄作も島での苛酷な生活が無ければ、胸の病いで短い生涯を終えることもなかったろう。

 種子島の調査を終えたわたしの許へ後日、徳永逞氏から古稀を祝って出版された歌集『種子ケ島びと』が届いた。それによると氏は生萌という雅号を持つ水甕の古い同人であり、西之表町議員並びに地区労議長などを歴任されてこられた文化人であった。

 政治の刷新をはかるため挙兵し、幕藩体制に体当りした高橋九右衛門の熱い血は今も子孫のなかに脈々と流れ続けているようである。それは次にあげる徳永氏の歌にも汲みとることが出来よう。

本稿を草するにあたり、調査、資料の点でなにかと御教示戴いた徳永逞氏、武田一族の方々、並びに鹿児島市立図書館郷土資料室、種子島民俗資料館、以上の方々に謝意を表す次第である。


  参考文献
大隅三好『流人の歴史』
徳富猪一郎『近世日本国民史文政天保時代』
『種子島家譜』第四巻(廿三代久道名跡五十三)
『門真町史』〈昭和三七年刊〉
武田盛永調書〈昭和二九年十二月十五日〉

        (作家)



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