Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.8訂正
2002.3.22

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大塩の乱関係論文集目次


「高橋九右衛門長男栄作の足跡を辿る 」
その3

前 田 愛 子

1981.3『大塩研究 第11号』より転載


◇禁転載◇

 あくる朝八時すぎ徳水氏が西之表ホテルまで迎えにきて下さった。種子島は今日も雨だった。西之表から十六キロあるという安城に向けて車は中辿道を走る。雑木林や荒れ果てた砂糖黍畠の真中を貫く舗装された道路は道幅も広々していたが、往き交う人の姿も無い。

 昔は急病人が出るとこの中辿道を馬で駆けて西之表まで医者を迎えに行ったそうである。

 「一年中、青草が生えているので、馬は飼い易かったのですな」

 この島では戦争前まで男も女も馬を乗り廻したという島民の生活に必要なその馬も戦争中、軍馬に徴用されてしまったとの話だ。

 やがて安中へ出ると道路はニつに別れる。山手の道をとって平松附近へさしかかると雑木林が開けて畠が点在する。この土地は大正三年に桜島が爆発した際、住民が集団移住してきて開墾したのだという。ほどなく安城へ這入ると人家が固まって見えた。安城から立山までは六キロの道だった。途中で部落が切れると右手に田植の終ったばかりの水田が望めた。低い山懐に抱かれたわずかばかりの水田を過ぎると立山はすぐだった。明治の初年まで二十戸あまりと云われたここも現在ではかなり戸数が増えているようだ。

 栄作の墓は立山、中之園の松原口にある。栄作が住んだ家から五分ほど歩いて行くと、雨風を避けるように鬱蒼とした樹木に囲まれた場所に立山部落の墓地があった。その入口に近い左手に妻や息子に守られて栄作は眠っている。つわぶきが生い繁る墓地に敷きつめられたまろやかな石は、すぐ近くの海岸から運んできたものであろう。雨に濡れて光ってみえる敷石を踏んで墓前にぬかずき合掌する。

 「この頃は貧しかったので墓も小さいですなあ」

 徳永氏の声に墓地内を見渡すと、栄作の墓がとりわけ貧弱だった。永い年月の間に風化した栄作の墓碑の正面には「藤原宗次武田栄作」とあり、正面右に「明治五年二月八日」左に「四十六才二丁死」と刻まれている。戒名は風化で判読できなかった。栄作のすぐ背後に息子栄助の墓碑が建っている。墓地内でひときわ荘麗なその墓碑は栄助の息子栄造が父の為に建てたものだ。正面左に次のように刻まれている。

 天保八酉大阪地方大饑饉人民為之餓死者多幕府/ニ人民憫乞聞得同年二月十九日当時従人大塩平/八郎大坂乱起北河内門真三番槍使達人高橋九右衛門/兵引之一味参加依長男栄作十五才現和村役場小/使トシテ引渡栄作成 長立山我先祖養子栄助チヨ生/栄助履歴左記通

とあり履歴を読んでいくと栄作の息子栄助は仲々気慨のある男性だったらしく、現和村外三ケ村の村会議員や安城村議員を拝命し、後に立山小学校が開校されると教員を務めている。栄作の孫栄造は祖父や父から大塩事件のあらましやその矜持をきかされて成長したので、父の墓碑を建てる際に刻みこんでおいたのだろう。

 昼間でも仄暗く感じられる墓地を出て栄作が住んだ屋敷へ向った。道路より一段高いキャベツ畠が切れると檳榔樹の植込みがあり、緩やかな勾配の奥に厩が望める。踏み固められた小道の土を懐しく感じて這入って行くと厩の左手が住居になっている。

 島の若者の多くが志を立て都会へ働き場所を求めて出ているが、この家を継ぐべき栄作の曽孫静也氏も同じく今は千葉にお住いとか。栄作が身をせめて働き蓄財した金で、息子の栄助が新築したという家は現在、空家になっている。雨戸を立て切った住居へ入れて貰って座ると道具の無い二五坪ほどの部屋は広々としている。

「栄作が持参してきた遣品は無いのですか」

 わたしの問いに武田永美氏は湯潅があって氏が幼い時分は、正月がくるとそれを出して飾った記憶があるといわれた。また現和村まで牛二頭が引いてきたという長持十七個は、当時、安城で疱瘡が流行して死者が多かったので、栄作の長持を棺代りに使用したとの話だ。鹿児島から三百石の船できた栄作が十七個もの長持を運んでくるということは考えられないので、この話は伝承されて行く過程で尾ひれがついたのかも知れない。栄作が使用した日用品についてはこの家の当主が住んでいないので判らないとのことであった。大塩関係で配流と裁決された者が十三名と伝えているが種子島は、栄作ひとりであったのだろうか、その問いに永美氏は重たい口を開き、「ひとりだったんじやなかろうか。明治になって自由な身になると、肉親の住む大阪より先に屋久島に渡ったという話じや」

 種子島は薩藩時代、三百年もの間、隣りの屋久島と交通を禁じられていたのに、その島へ人を訪ねて行ったということは余程、逢いたい人物が居たに違いないといわれる。

 後日わたしは屋久島へ調査に赴いたがそれが誰であったかつきとめ得なかった。それに西之表や中種子町に住む京・大坂からの流人の子孫を徳永氏より御教示いただき、大塩事件との関連を尋ねてみたが、いずれも繋りの無い方たちばかりであった。

 栄作の戒名は寺の過去帳に記されているのではないかとその旨を話すと、過疎の村には寺の住職は住まず今は掛寺になっているので判らないだろうとのことだ。わたしの困惑した表情に永美氏は、栄造の二男盛永が栄作の ことを調べていたようだから、息子の守男に尋ねてみれば何か判るかも知れないと教えて下さる。わたしは草深い立山をあとにすると心はもう屋久島をめざして飛び立っていた。



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