『大塩研究 第17号』1984.3より転載
大阪市のほぼ中央を南北に貫く洪積台地を上町台地とよぶ。その北部に大阪城や難波宮跡があり、大阪府庁をはじめ諸官庁や文化・厚生施設が林立しているが、中部は寺院が櫛比する地域、いわゆる南の寺町である。この寺々はもと大阪市中に散在していたが、大坂落城後、城主となった松平忠明により市街整備が行われ、これにともなって移転され、元和年間に市中東南部の寺町を構成したものである。
寺院の中には戦時に空襲で被災したり、戦後の道路拡張等により姿をかえたものもあるが、寺町に足をふみ入れると、いまなお開静な町並みが残っている。この地域は大坂商人や文人の菩提寺・墓所の集中したところで、大坂文化をしのぶ風致の地である。
地下鉄谷町線四天王寺前駅下車、谷町筋西側歩道を北へ向うと、大阪市がつくったレンガタイルの歴史の道で駅から五分で同寺に着く。
本堂南側の墓地の西寄りに三方を土塀で囲まれた三井家墓所がある。この土塀は約十年前から破損が目立ってきたが修復されないままである。事件のとき、三井家は一時同寺に難を避けた。なお三井家の本寺は京都岡崎真如堂である。
西方寺と同じ道筋で、源聖寺坂との四つ辻の西南角に銀山寺があり、大塩門人松本乾知と父寛吾の墓がある。乾知は通称保三郎、伊予人で若くして豊後日田広瀬淡窓の咸宜園に学ぶ。十三歳の時上坂して中斎に師事し、十六七歳のころ既に成人の如しといわれた。天保六年(一八三五)七月十六日二十三歳で病死し、中斎は、その学統の「徐曰仁」かとのべて夭逝を惜んだ。多くの書は、乾知の通称を保太郎どするが、碑文の示す保三郎が正しいと思う。
墓は地蔵堂の西北側にあり、位牌形砂岩の小さいもので、剥落が著しく、中斎の撰文で門人松浦誠之の麗筆になる碑文は僅かに左の五十字(ゴチック体)が現存している。現存する中斎唯一の撰文であろう。事件一年前の建碑である。
正 面 | |
左 側 面 |
松本乾知字道済俗名曰保三郎父寛 五母某氏寛五素予州人客万于浪華 以業医乾知幼而頴悟九歳既好詩章 之豊後比田受業広瀬某十三歳而帰 于浪華入我門従事致良知教至年十 |
背 面 | 六七既如成人事親而孝与朋友交有 信不幸而病癰天保六乙未秋七月十 六日卒于家享年僅二十三葬于銀山 寺乾知天資純粋若令仮数年卒其業 則亦当称我門之徐曰仁矣鳴呼傷哉 六七既如成人事親而孝与朋友交有 信不幸而病癰天保六乙未秋七月十 六日卒于家享年僅二十三葬于銀山 寺乾知天資純粋若令仮数年卒其業 則亦当称我門之徐曰仁矣鳴呼傷哉 鳴呼惜哉所謂苗而不秀者也夫 |
右 側 面 |
于時天保七歳 歳次丙申春三月 源 後素 撰 同門生松浦静之 書 |
乾知の墓の東側に寛吾の墓がある。無縁塔の中にあったが、昭和五十八年九月から墓地整理作業を始められた機会に、依頼して乾知の墓の隣に移してもらうことができた。
正 面 | 石 鉄 松 本 先 生 墓 |
背 面 | 天保六年三月十六日没 |
寛吾は通称で、名は通業、アザナは必大、石鉄と号した。伊予出身、京都に出て海上随鴎(稲村三伯)の門に入り、大坂で蘭方医として名を知られ船場に開業していた。松本隣大夫は乾知の弟。
銀山寺の過去帳には、天保六年の項に
七月十六日 志嶽崇篤居士 | 廿二才 | 枩本保三郎 |
土葬 | 三月十六日 松林院石鉄居士 | 四十五才 | 枩本寛吾 |
小 | 松運信女 | 松本氏後家 |
とあるのが乾知の母と思われる。「土葬」は銀山寺に、「小」は小橋(おばせ)墓地に葬ったことを意味する。
銀山寺には、俳人・医者・儒者であった岡西惟中や近松門左衛門「心中宵庚申」のモデル、お千代・半兵衛
の碑もある。
銀山寺の北は生玉町で、生国魂神社を左に見て北へ進み、千日前通をこえると中寺町に入る。ここも道をはさんで寺院が並び、西側三つ目が大倫寺で、玉造口同心であった、坂本鉉之助の墓がある。荻野流砲術にすぐれ、大塩事件のとき、淡路町で大塩勢鉄砲方梅田源右衛門を撃ち倒してこれを敗走させた。かつては大塩と知己であった。事件後その功により旗本に挙げられ、玉造口与力となった。鉉之助の手記「咬菜秘記」は大塩や騒動の実情を知る上に欠くことのできない史料である。
墓は寺の前庭東北隅に南面して立つ位牌形花嵐岩製で、西側が鉉之助、東側が夫人の墓である。鉉之助の墓碑はつぎのとおり。
正 面 |
坂本俊貞之墓 |
背 面 |
万延元年庚申九月廿四日卒 坂本木工三郎貞方 |
墓と並んで一番西側には鉉之助の長文の銘を記した碑がある。楓の木に囲まれて、高さ一三七センチ、幅六二センチ、厚さ二六センチ、自然石の台を併せると高さが二二〇センチとなる立派なものだが、砂岩の碑は剥落し始めている。
剛毅君之碑銘(隷額)
以銃発身 報父有烈 以身殉銃 奉君有節 孝始忠終 一機火術 猗与銃法 準的精密 功徳遠聞 優恩特抜 古来攸稀 批瘤訣 西衙故尹 久須美君 嘉厥功徳 交友投分 斫石殊表 墓道之阡 題額一揮 隷古雄渾 鳳来奉命 誌且銘焉 丁酉偉蹟
以胎後昆
君諱俊貞字叔幹号鼎斎称鉉之助坂本氏其先佐々木氏食邑於江之坂本因改焉考諱俊豈字伯寿号/
天山以善荻法銃聘仕于高遠侯妣吉田氏生君于信既長以 官命来承府城南鎮曹坂本俊現後俊現/
以 召留江都因有斯 命両坂有銃名而天山最多発明君演述其法以命家焉天保丁酉春塩賊乱砲/
寇市三郷火起府下驚擾荷担逃者填咽道路火弗者三日顛沛流離惨不可言矣君受 鎮師三上
/
命執銃与衆出禦遇賊于淡路街君径潜躬於紙肆架櫃叺狙焉賊丸先迸汰于笠簷君不之知即発賊斃/
君躍然急追賊党駭散砲煙
冥不弁咫尺賊酋匿蹤事竟平市井帖然商買復業実君之賜也後賊酋伏/
誅明年戊戌秋 大命褒賞擢君於麾士賜白金百錠及巨砲一門乃為土着司銃正土着 士蓋君為/
始矣後賜居第于桃谷隷部卒十人他年遂列于元従臣籍又以為永制矣世称其特恩異数云君為人端/
剛沈毅忠直勤倹恩威並行夙喜読書及老弗怠厚崇宋学痛排異端人愛而畏之万延庚申九月廿四日/
蚤赴 府帥検銃場暴疾告老而後終寿七十私謚剛毅 府南大倫寺娶森山氏生一男七女長男女倶/
夭余皆帰唯末女未適無嗣養幕府大鎮衛高橋氏子貞方為嗣配以第六女貞方尋奉 命継織銃技太/
精黄泉之下君無復遺
矣銘曰
文久二年壬戌五月 浪華府学懐
徳書院教授並河鳳来謹撰并書
大倫寺の北隣にある。江戸時代初期、寛文年間に鴻池善右衛門の一建立になる。鎌倉にある総持寺末で、同寺が建てられるまでは浄土宗の寺があったといわれる。
大塩が攻撃目標とした市中大商人の代表として、今橋の鴻池屋善右衛門・同庄兵衛・同善五郎その他豪商が真先きに焼き立てられた。
本堂前を過ぎて墓地に入ると右手に五輪塔が林立している。南北六列と奥の塀に沿って東西一列に並ぶ五輪塔は七十数基もあって墓地の約半分を占め、壮麗な光景は他の墓地には見られない。
顕孝庵の北隣にある。田結荘家菩提寺で、大塩門人田結荘千里がここに眠る。
千里は文化十二年(一八一五)四月に、天民と、野呂天然の女との間に生まれた。幼名不動次郎、長じて斎治アザナは直養、号を千里という。中斎の門人となって但馬守約と称した。松浦誠之(アザナ千之、通称鼎介)・松本乾知と共に洗心洞箚記の参訂を行った。事件には加わらなかったが、嫌疑を被り捕えられて入牢し、同年十二月嫌疑が晴れて出牢した。その後学問の範囲をひろげ、長崎に学び砲術兵学を修め、産業関係にも尽力し、国防を策し、かたわら絵画をたしなみ、また、多くの著述をのこした。その蔵書は玄武洞文庫として大阪府中之島図書館に収蔵されている。明治二十九年(一八九六)三月二十八日八十二歳の天寿を全うした。
千里の父、但馬天民は安永八年(一七七九)但馬国城崎郡山本村(現・豊岡市)に生まれ、大坂で蘭方医を開業し、著書もある。慶応三年八十九歳で逝く。
本堂前に藤沢南岳の撰文とその書に成る「千里先生碑」がある。
学貫経史而 為儒術長火技而恥称武士善書巧画而 耻為芸人致力実業篤志于済世裨国吉友千里翁其 人也翁五歳読書幼従大塩中斎未弱冠中斎許以学成 尋連坐下獄周年遇赦乃愈勉誦読歴游小竹旭荘
江 門与先子最親善兼学画于金子雪操学殖冨贍厖 成 一家而有所感游長崎修蘭学従池部如泉学砲術専志 冨強着桑土 言散兵神機府又着読墨痕応広島津新 宮諸藩聘教導藩士待遇頗厚己而幕府威微天下騒然 廼唱勤王献時務策于幕廷呈海防策于学習院着血涙 痕明治二年与米人韋氏游清国到漢口与謝鵬飛等交 鵬飛善逆筆法世所未伝也翁得之大喜在清三年着游 厥痕又赴北海道図裨国之事以病帰于大坂時年六十 六安於嫡子佐近之養読書作画逍遥自適病癒於是勉 于述著重修身世準縄四巻千文草字尤二巻増註伝習 録三巻大学心解四巻大学心印六巻古文孝経心解七 巻孫子心解十四巻成矣無非救世憂国之語者也二十 九年三月二十八日歿享年八十有二私謚曰正順院香 光千里居士葬禅林寺翁諱
字必香一名邦光千里其 号父曰但馬天民翁其第二子以父命改姓曰田結荘 但州鶴城城主田結荘左近将監之裔故復之大坂有田 結荘氏実自翁始翁為人堅強自克接人謙譲二男三女 性皆孝順家庭之訓可知佐近最孝翁在病蓐殆一年而 侍養保護能尽其心翁怡然以逝臨逝作不死行一篇勤 以代銘曰 一得生即一有死 死生必竟無死生 生則為歓死為 戚歓戚何物不着情 情不着 相不着 打破宇宙游 太空一呼一吸与天通 一呼呼気還大元 一吸吸 気滋霊根 明治三十年一月 浪華 南岳藤沢 撰并書
碑の前の石畳の道をすすんで墓地に入り、中程から右へ入って行くと、西北隅に近いところに東面する大小の目然石の墓がある。南側の大きいのが田結荘氏累世の墓、北側は千里両親天民夫妻の墓である。累世の墓は高さ一一三センチ、幅六四センチ、厚さ二七センチ、台石は高さ五〇センチの見事な石である。北側の墓はやヽ小さいが、高さ一一一センチ、厚さ二五センチ、台石の高さ四五センチである。
正 面 |
田結荘氏累世墓 |
背 面 |
明治三十年二月建之 |
正 面 |
玄 武 洞 |
先覚天民居士 自覚順正大姉 |
背 面 | 大姉諱順城崎温泉三宅氏長女 安永八年庚子三月十三 日生 安政四年丁巳後五月二日昧 睡眠中死享年七十 有八始罹病能慎徳追号自覚順正葬> 于城南禅林寺 居士 元長字文善称天民又号椿斎姓日下部其先田結荘 氏為但馬国鶴城之太守後称坂根氏又称岡氏居士以 安 永八年己亥五月六日生於山本邑壮而来浪華業医自称但 馬氏性狷介謹厳富学術有著書 慶応三年丁卯正月十四 | |
右 側 | 日夜二更瞑目而逝矣享年八十九追号先学天民居士 |
同寺には、砲術中島流の開祖中島貫斎の墓もある。大塩勢の砲術はこの流派によった。このほか、医師古林見
宜をはじめ有名な墓が多い。
禅林寺の北、中寺町北端にある。ここには、代々天満組惣年寄で、大塩事件当時その役にあって、中斎父子の死骸実見証言をした今井克復(かつよし)の墓がある。克復の孫にあたる田村登波氏、その子今井三郎氏(医師)が東京におられる。
墓は墓地西端から五列目で東面している。もと西向きであったが、数年前木が生えてきて台地が傾きはじめたので東向きに改修したという。
二基のうち南側の墓に克復の戒名がある。明治四十四年(一九一一)に没し、きわめて長命であったと知れるが、「官之助」の名が世襲であることや、明治十七年以後の過去帳が戦災で焼失しているため、未解明の点があり、今井氏が調査中である。
正 面 |
顕孝院北水日明信士 心復院法清香松軒居士 貞葉院長川日管信女 継孝院澱水日輪信士 |
左 側 | 克復二男 中島氏建之 |
背 面 |
顕明治十九年九月廿二日 俗名官之助 心同四十四年六月三十日 同 克復 貞同四十一年十一月十二日 同 管子 継同四十一年一月七日 同 殿三郎 |
中寺町から谷町筋へ地蔵坂を登りつめたところ、交差点の東北角にある。
大坂における豪商として、まずあげられる両替商の創始者天王寺屋五兵衛一統の墓がある。天王寺屋も大塩に焼き立てられた。幾基もの巨大な五輪塔がそびえ、すき間もなく立ち並んでいる壮観に豪商の姿の一端がうかがえる。しかし、天王寺屋は明治中期に断絶して子孫は現存していない。天王寺屋の姓は大眉と称した。聖徳太子が四天王寺建立の際、建築用材などの調達を命じたことから天王寺屋という屋号になったという伝えがある。
墓地に入って東に進むと右側に格別大きい五輪塔が二基ある。初代五兵衛が建てたもので、西側が父吉右衛門(秀綱)の墓で、戒名は清秀奇峯院心月浄隆海雲日光居士、享年五十四歳、東側が母の墓で妙慶とある。初代の大眉五兵衛(光重)は、元禄七年(一六九四)七十一歳で没した。その戒名は「清光院栄山定休日耀居士」で、墓は墓地西方中ほどで西面している。そのほか大眉一族の墓が墓地の大半を占めている。
住友家の菩提寺は本来実相寺であるが、法華信仰によって久本寺にも墓碑がある。墓地にひときわ高くそびえ立っているのが住友家二代友以(とももち)夫妻の墓で「土葬」とある。そこから無縁塔の方へ少し行くと友芳夫妻等の墓がある。
ここの墓地も寺の東側が道路にけずられたため、再整理されたもので、そのため巨大な五輪塔が一層たてこんだ姿になっている。
なお同寺の本堂は天王寺屋、脇本堂(祖師堂)は住友家の寄進になるもので、同家の位牌をまつっている。
久本寺の南側の道を東に向い、上本町筋(上町筋ともいう)の交差点で左へ曲ると、住友家墓所の実相寺がある。まっすぐ行って二つ目の四つ辻を左に曲ると約百メートル先に龍淵寺がある。ここには、秋篠昭足の墓がある。碑文によれば、大塩平八郎の戚属で、事件のあと河内にのがれ、さらに大塩父子ら五人の徒と天草に走って清国に入り、大塩父子は欧州へ走り、昭足ら三人は長崎に帰って医業をなし、のち浪華に帰って姓名を伊藤吉平と改めたという。大阪人の大塩観をうかがう興味深い碑文である。
この墓も、無縁整理の結果、墓地東南隅の現在地に移され西面している。
正 面 |
秋篠昭足之墓 |
左 側 |
丈人諱昭足東坊城左典厩 神足之庶出 出冒秋篠氏天保丁酉春大塩平八郎作乱 于大坂丈人素与大塩為戚属是以夙与其 謀及敗与大塩及其徒十二人遁于河内□ 土窟中初丈人与肥後天草僧善僧因勧□ 于其郷五陵長岡氏丈人及与大塩父子及 |
背 面 |
其他五人泛海遁于天草余皆自尽居歳余 更航入清国久之大塩父子避跡欧羅巴丈 人与其徒三人還于長崎以医為業往来於 天草嶋原間長岡氏生二女長女已出嫁丈 人独与季女居明治壬申余在熊本鎮台納 季女生一男居敷蔵丈人携女及孫還大坂 改姓名曰伊藤吉平十年丁丑十一月十□ 日病歿享年八十四葬于城東龍淵寺塋□ |
右 側 |
廿三年十月。前四等編修官正七位奥 並□ 撰并書孝女伊藤美喜立 |
なお、昭足の墓のすぐ正面に、名横綱双葉山こと時津風定次の墓がある。また、墓地西端の無縁墓の一隅に頼山陽の母方の祖父飯岡義斉の墓がある。
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