Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.14

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と河内国衣摺村」

政野 敦子

『歴史研究 第181号』1976.2より転載


◇禁転載◇

 はじめに

 大塩平八郎はもと大坂東町奉行の与力で、能吏のきこえが高かったが、また陽明学者としても有名であった。文政十三年(一八三○)与力の職を退いてからは中斎と号して、学問・著述に専念するとともに、天満の四軒屋敷の自宅に洗心洞塾を開いて学を講じた。

 洗心洞の門弟が与力・同心およびその子弟をはじめとする武士階級はもちろん、大坂近在の農民が少なくなかったことが著しい特徴である。平八郎は農村を愛してしばしば村に出かけ、農村に取材した詩作も多い。ことに河内の農民と平八郎は関係が深かった。渋川郡衣摺村は幾人かの深い関係者を生み出した村であり、私の家は母の代まで約三百年余十二代にわたって住んできたところである。「大阪騒動」とよばれて全国に大きな影響を与えた大塩事件と、この衣摺村のかかわりを明らかにしてみたい。


一、近世における衣摺村の概況

 衣摺村は大坂大川(もとの淀川)の船着場八軒家から東南へ一里半、河内平野のほぼ中央に位置している。江戸時代のはじめから幕府領であったが、寛攻六年(一七九四)に村高一、二四石四斗九合のうち、六一七石六斗二升三合は幕府領で、永井日向守の預所となリ、残り四九六石七斗八升六合は依然徳川代官の支配地という入組支配となった。さらに天保五年に永井氏の預所の部分も稲葉氏の領地にかわり、淀藩の一円支配となった。しかし村方支配は従来のいきさつから庄屋が二人おかれていたようてある。

 村の状況についてみると、元禄十四年(一七○一)「河州渋川郡衣摺村差上帳」によると、惣百姓七十四軒、うち高持三十一軒、無高四十三軒で、宝暦ごろと推定される「河州渋川郡衣摺村差出明細帳」では、竈数七十一軒、うち高持三十軒、無高四十一軒とある。その間総戸数で三軒減少しているが、無高率が六割近くに達して、階級分化がかなりすすんだ村であることを物語っている。

 人口は右の「村明細帳」によると、三一八人で、男一五八人、女一六○人となっている。宝暦五年「河州渋川郡衣摺村宗門御改帳」により村の人口構成をみると、総数三○五人、男女別ては男一三九人、女一六六人である。年令階層別にみると、乳幼児がきわめて少ない。十五歳以下の子ども有三十七軒、子ども無三十四軒、これを高持と無高を比較すると、無高では子ども有十五軒、子ども無二十軒、高持は子ども有二十一軒、子ども無十五軒で、高持の方が子ども有の割合が大きい。なお一軒あたりの子ども数は、一人というのが十八軒て、二人四軒、三人六軒、四人二軒、六人一軒で多子家庭はほとんどない。

 十五歳から三十歳までの女が頗る多いのは、この年代に奉公人が多いためである。奉公人をおいている家は十八軒で、全戸数の二五・六%にあたり、高五石以下の貧農でもその三分の一が奉公人を雇っている。奉公人の出身地をみると、表に明らかなように半数は村内およぴ近在の渋川郡・若江郡出身で、播州神東郡・加西郡出身者が多いことは、宝暦年間河内地方に播州出身の奉公人が多い実態を丹北郡東出戸村の例ですでに佐々木準之介氏「幕末社会論」が明らかにされている特徴と同様である。

 若年層が男より女の方がはるかに多いのにひきかえ、壮年層では男が女よりも多くなっている。

 村の産業はいうまでもなく農業で占められている。河内地方は江戸時代全国で有数の棉作地として知られており、すてに元禄・享保期には全耕地の六〇%前後が棉作であったといわれる。衣摺村の宝暦ごろの作付状況をみると、幕領分六百十七石一斗五升五合についてみると、五九%が棉作であり、畑作にかぎってみればその九三%までも棉作である。奉 公人が多いのは綿業にともない多様な労働に従事したためであろう。

 宝暦五年の「宗門改帳」によって農民層の階層構成についてみると、無高三二軒(四五・六%)高持三八軒(ほかに寺二軒)て、五石以 下の無高貧農層は実に五五軒、七八・五%に達している。中農とみるぺき五〜二〇石層は十一軒、富農・地主とみるべき二〇石以上層は三軒であり、このなかに最高持高四六石の庄屋が含められる。これは農民層分解が相当すすんでいることを示している。

 肥料の高騰や天明・天保の飢饉・凶作を経るなかで、農民層の分解はいっそうすすんだと思われる。

 衣摺村も先進地帯ゆえに多くの困窮民、平八郎の檄文にいう「田畑所持不致もの、たとへ所持いたし候共、父母妻子家内の養方難出来程の難渋者」が多かったであろう。

 天下の台所を中核として繁栄した摂河泉地方は、やがて、相つぐ凶作と特産物である棉や菜種の栽培に必要な肥料の高騰に加えて、農産物を安く買いたたかれ、綿・菜種などの商品流通を大坂特権商人によって支配され農民の生活は窮迫していた。

 十八世紀中ごろからあらわれてきた国訴は十九世紀に入っていっそう激しくなったが、田沼時代になって、問屋商人に与えられていた特権的市場支配に対して、農民が自由に商品を売ろうとする運動は、文政六年大坂三所綿問屋の実綿買い独占に対する国訴等、文政期には千カ村をこえる大規模なものになった。

 一方、大坂市中では、天保七年九月、大坂高津五右衛門町の町民が、雑穀屋を打ちこわし、天狗稲荷などに「大坂中不残黒土」という予告のはり紙がみられたり、米価高騰にあえぐ町民によって、各所で一揆や打ちこわしがおこりはじめた。


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