Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.21

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と河内国衣摺村」
その2

政野 敦子

『歴史研究 第181号』1976.2より転載


◇禁転載◇

 二、衣摺村における大塩与党

(一)村払いになった庄屋三平

 平八郎は摂河地方に、般若寺村庄屋橋本忠兵衛、守口町質屋兼百姓白井孝右衛門ら幾人かのすぐれた門弟をもち、河内の村々と深い関係があったと思われる。その一つにさきに述べた衣摺村が浮び上がってくる。この村の淀藩稲葉丹後守領分の庄屋をつとめていた者に熊蔵という人物がいる。

 彼は、天保六年六月「庄屋勤中出入の腰押いたし領主役場之申渡不相聞候」(「浪華異聞」)という事件により、庄屋役を罷免させられて村払いになった。当時二十七歳であった。

 この村では、これより七年前の文政十一年(一八三〇)に「大騒動一件」がおこり、この事件まで永井氏預所の庄屋を勤めていたと推定される政野重郎右衛門(熊蔵親類)が死罪に処せられ欠所になるという注目すべき事件が起きている。その真相は今のところ明らかでないが、重郎右衛門の二人の子と弟が、大塩与党になっている後述の事実および当時熊蔵がこの村方の庄屋を務めていたことから、衣摺村と大塩事件とのかかわりを考える上で重要な意味をもっているものと思われる。

 熊蔵は当時家内三人で農業を営んでいた有力農民と思われるが、村方を追放されてからは、杉山三平と名を改めて、所々を立ちまわリ、(?)天保七年九月から十二月までの間は加賀国本泉寺(東本願寺末)に滞在し、その後懇意であった河内国茨田(まつた)郡守口町(いまの守口市)白井孝右衛門に身のふり方を頼んで、その世話で天保八年二月七日から洗心洞に住み込み、寄宿塾生の世話をすることになった。彼は塾生のすべてとは面談しなかったようであるが、播州河合中村の堀井儀三郎・近江上州小川村の医師志村周次・大井正一郎・額田善右衛門らの主だった門人と面識ができていた。

(二)施行札を受けとった市太郎

 平八郎は天保八年二月の騒動に先立ち、学者の生命ともいうべき蔵書をことごとく売払って難渋民に施行をした。

 この施行を受けた範囲は、摂津・河内三十三力町村で、河内の十ニカ町村は、茨田郡九・交野・志紀・渋川各郡は一村ずつで、渋川郡の一村が衣摺村なのである。平八郎は施行札一万枚をすらせ、これとひきかえに困窮者に金一朱ずつ与える予定であった。

 施行札九千枚は大阪市中と近郷の者多数が参集して、二月六日から二月八日にかけて、大坂安堂寺町の本屋仲間会所で金子とひきかえられたが、平八郎の手もとに残された一千枚は、平八郎から直接手渡されたか、あるいは別途ひきかえられたものと考えられる。

 衣摺村は、同村の市太郎(私の曾祖母の兄)を通しておこなわれた。その様子はつぎのとおリである。

 市太郎は文政十一年大騷動で死罪となった重郎右衛門の子どもで、市太郎が大塩邸において一朱金三十をうけとった。

 平八郎から聞かされて承知したが、さらにつぎのような重要な申渡しをうけていた。

 平八郎は施行に際して、天満に火事があれぱ必ず駈けつけよと命じ、これを兵力に加えようと計画していた。市太郎に対しては、さらに、追放になった熊蔵のあとをうけたと思われる庄屋源吾・高安郡思智村(いまの八尾市)名前不覚庄屋、渋川郡正覚寺村(いまの大阪市平野区)庄屋儀右衛門・同郡北蛇草村(はぐさ)庄屋三郎兵衛という河内の四庄屋が、米価高値の時節をかえりみず、強慾をむさぽり、村民が困窮しているので、彼等の居宅を焼払って百姓どもを助ける所存だから荷担せよというのだ。

 従って、平八郎は大坂市中の豪商を襲うことと併行して、村方騒勘を遂行する計画であったのだろうか。

 大塩事件後、これら四カ村の庄屋に対して奉行所の調べでは、平八郎の誹謗によるものとしてとりあわなかったが、その後正覚寺村では天保十二、三年(一八四二〜三)にかけて、庄屋儀右衛門・歓三郎父子を相手にかなリ大がかりな村方騒動が起り、村方内部から十数名におよぶ罪状を書きたて排撃運動がみられたのである。

 儀右衛門は文政七年ごろから天保十三年まで、近隣の淀領十四力村で苗字帯刀の大庄屋並を勤め、その役儀を笠にわづか一代で六、七十石の高持から二百石の大身代を築いたといわれるが、宝暦四年衣摺村の「免割帳」にも儀右衛門が高八石三年六升九合を所持していたことが記されている。

(三)門人の儀次郎と孝右衛門

   市太郎の弟に儀次郎という人物がいる。彼は天保元年、洗心洞に入塾したが、同七年病気で退塾し、従弟にあたる白井彦右衛門(孝右衛門の子)のもとに身を寄せていた。天保六年版の「洗心洞箚記」巻頭の後自述の文末には「門人白井為本謹書」とあるが、幸田成友氏はこれを儀次郎と推定されている。

 儀次郎は本来政野姓のところ、白井姓を称するのは彦右衛門方に身を寄せていたためであろうか。なお白井家の過去帳にも私の家のそれにも儀次郎の名はなぜか見当らない。

 儀次郎に対して、平八郎蜂起の計画を打明け、荷担することを同意させたのは叔父にあたる守口町の白井孝右衛門であった。

 孝右衛門は古参の門弟として名高い。彼は百姓兼質屋・古手屋を営み、その居宅は定紋付きの総瓦葺で、土蔵もあり、小門のような木戸を構えた大邸宅であったといわれる。門人としては、平八郎と深い関係にあっただけでなく、般若寺村庄屋橋本忠兵衛らとともに、平八郎の勝手向きの世話をしていたといわれる。

 孝右衛門の出自については今まで明らかにされていなかった。しかし、私の祖母や母は常々「守口の孝右衛門はうちから養子入りした人だ」と言い伝えており、代々大切に伝えられてきた、文化十年(一八二七)四月付の一通の結婚目録も現存している。また、文政十一年の大騒動のあと、守口町白井三郎右衛門が甥市太郎にあてた証文も残されている。この事件で父重郎右衛門を亡くした市太郎に対して、三郎右衛門はよき後見役をつとめていたようである。実はこの三郎右衛門が孝右衛門なのである。

 昭和四十八年十月、私は守口市白井家の土蔵二階で、文政十三年二月おかげ参リのお札ふリに際して取りつけられた転社のとびら書きが、孝右衛門自筆の筆跡で、白井三郎右衛門の署名が、私蔵の文書にあるそれと一致することを知った。転社のとびらにはつぎのような文章が記されている。

 なおこのとき、百三十年余土蔵の中に人知れず眠っていた「天保八年釈貞敏酉四月二十八日」としるされた孝右衛門の白木づくりの位牌を発見した私は、曾祖母の叔父孝右衛門の位牌を胸に抱きしめ、とびら書きの筆跡をみつめてうす暗い土蔵の中であついものがこみ上げてきたのであった。

 これによって、孝右衛門は市太郎の父八代重郎右衛門の弟で、もと三郎右衛門と称し、さきの結婚目録からみて、文化十年四月二十五歳で白井家へ養子入りしたことが明らかになったのである。孝右衛門は前述のように、衣摺村と大塩平八郎を結びつける上で重要な役割を果たした人物であるが、その間の事惰は彼が同村出身であることから理解できる。


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