Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.2

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大塩の乱関係論文集目次


「天命を奉じ 天討致し候」 その0

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

 天保八年(一八三七)の春たけなわ、天満橋の南詰にある大坂東町奉行所が重苦しい気配に沈んでいるのは、春特有の夜寒のせいではない。米の値段を引き下げ貧民や小前百姓らに米を恵むべしと、「救民」の織旗をかかげた大塩平八郎とその一党が暴乱をひき起こしてから今日三月十九日でちょうどひと月になる。大塩一党は、自昼堂々と大筒四門をくり出すなどして大坂市中の五分の一を灰燼に帰して逃げ去ったのだ。
 御上の面目は丸潰れだというのに、首魁の大塩とその養嗣格之助の行方が皆目つかめないでいるのが奉行所内の雰囲気を陰鬱なものにしている。
 暴乱そのものは大坂城代配下の加勢を得て夕刻までのわずか半日で鎮圧した。そして大塩の門弟二十二人をはじめとする逆徒の一味は、今日までに多くは自裁し、残る者は召し捕られたり、自首したりして来た。一味の親族や同志だと疑われた知己友人らも同様である。ところが肝心の首魁二人は、乱の後大和路に逃れたらしいというほかに何の手掛りも得られていない。
 ──一日も早く両人を召し捕るべし
 江戸幕府からの催促が大坂城代をつうじて毎日のように大坂の東西両奉行所に届いている。
 大塩父子探索の本陣となった東町奉行所には、東西の奉行所に属する与力、同心百六十人のほかに加勢として大坂定番の役人十数人も詰めている。大坂定番は大坂城代に所属する与力、同心である。大坂周辺摂津、河内、和泉、それに山械城、播磨の各地から時折内報やら注進やらが寄せられたりす天ると、山鳥の巣をつついたような騒ぎになる。
 針や藁屑ほどの伝聞であっても、ある者はそれっとばかりに馬を駆け、またある者はその信びょう性をめぐって一喜一憂したあげぐ、溜め息をついて肩を落とす。釣果のないべた凪ぎのような日のくり返しだ。
 三月もなかばを過ぎたというのに、東町奉行所の広問は、戸障子を開け放していても淀の川風は入らず黴雨(ばいう)のような蒸し暑さが居座ったままだ。
 奥の御用部屋に陣取って采配を振う東町奉行の跡部山城守良弼は、いたたまれずに立ち上がり、頚筋のあたりに扇子で風をあてながら歩き廻っている。相役の西町奉行の堀伊賀守利堅は、就任早々の新参ということもあり、火桶の中で白く変わっている灰を火箸でつっつくのを仕事のようにしている。
(まったくついておらん、わしは。いずれ老中にも抜擢されようかというのが楽しみであったのにだ。大塩平八郎中斎という偏屈の隠居与力が救民だなどと阿呆ぬかして一揆を起こしやがった。お蔭でわしの出世もこれまでか。八ツ裂きにしてもなおあきたらぬ、引っ捕らえないで済むものか)
 跡部は、八ツ当たり気味に入側の羽目板を蹴り上げた。足の指先に鋭い痛みが走った。
(今の飢饉は天保四年から始まり、五年に及んでいるものだ。米が穫れぬのはお天道様と雨を降らさぬ竜神様のせいではないか。米が穫れなければ値が吊り上がるのは理の当然──今にはじまったことではないわ。なのに大塩に言わせれれば、民が飢えて苦しむのはみな奉行たるわしのせいだと言う。面白くねえ)
 広い御用部屋では、与力の中の実力者と言われる内山彦次郎が二人の奉行から畳二帖分ほど離れて背を向け、文机の上に覆いかぶさるように背中を丸めている。内山が目を皿のようにして追っている文字は、天領の代官や諸藩の用人らから送られて来た、各地の不穏な動きを知らせる文書であった。先月の暴乱以来、大坂周辺の農山村では大塩に刺激された民衆の動きがひんぴんと伝えられている。
 こうした動きの中に、大塩父子がまぎれ込み、扇動していることも考えられる、というのが内山が神経を異常に高ぶらせている理由である。
 しかし黒々と並んだ文字が語るのは、手配書の大塩父子によく似た男二人が能勢(のせ)の山中で杣道(そまみち)を登って行くのを見掛けた者がいた。村里のお稲荷さんへのお供えがつづけざまに盗まれたのは、父子がその辺りに潜んでいる証しではないか、などいずれも決め手に欠ける風説か憶測の類いに過ぎないのだ。
「下民や小前百姓という森の海に、大塩父子は忽然と溶け入ってしまったのだろうか──そんな阿呆なことがあろうはずはない」
 大塩平八郎という男、与力としてかつては同輩だっただけによく知っておるが、あの狷介(けんかい)、孤高について行く民衆などおらん。奴は悴を連れて何処かに潜伏しておるに違いない──やっと妥当な結論に達したと思ったものの、内山はまだ何か見落としているような気がしてならない。
 一つしかない行灯の明かりが明減し、御用部屋の中に一瞬 濃い闇が広がった。



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「天命を奉じ 天討致し候」
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