Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.6

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大塩の乱関係論文集目次


「天命を奉じ 天討致し候」 その1

松原 誠

『時代小説大全』(別冊歴史読本 98春号)
新人物往来社 1998.3 より転載


◇禁転載◇

「お父上、きょうはたしか三月の十九日。早いもので、決起したのはちょうどひと月前のきょう。この美吉屋の離れ座敷に潜んだのが二月の二十四日ですから、厄介をかけてからもそろそろひと月になりますな」
「それがどうしたというのだ」
 手枕で横寝したまま不機嫌そうに格之助に反問したのは大塩平八郎だ。大塩は逃走中、変装のため剃髪したものの、潜伏が長引くにつれて頭髪が伸びていが粟頭のようになっている。顔面は頬もあごも髭に濃く覆われて、痩せこけ鐘馗(しょうき)様のように見える。人を威服させずにはおかないような底光りする眼だけが、与力出身の高名な陽明学者として俤(おもかげ)をわずかに伝えている。
 そんな大塩だが、まだ四十五歳。号を中斎と言い、隠居後も市内天満にある与力の組屋敷内で洗心洞という私塾を開いていた。今度の挙兵蜂起の中心となったのはこの洗心洞の門弟たちである。
 二十七になる養嗣の格之助は、養父の跡を襲って同じく東町奉行所の与力となり、今度の決起にあたっては、終始養父につき従った。やや反ッ歯だが色自の優形だった格之助も、中斎同様に面やつれがひどく、水膨れした干し鮑(あわび)のおもむきがある。
「お耳に障ることを毎日申しあげておりますが、こうして無為に日を送るよりも、一日も早くここを出て何とか再起を図る途をこうじるべきではないですか」
 無為の日という物言いに反発して、中斎は髭面を格之助に向けたが、これまでは従順な姿勢をくずそうとして来なかった格之助には珍しく、養父の威圧に怯(ひる)まずに言った。
「そうでなくてもわれら父子は、美吉屋五郎兵衛殿に、日々逆徒隠匿の重罪を押しつけておるのですぞ」
 心苦しく身を焦す思いがします、とつけ加えようとしたが、喉元でこらえた。格之助の養父への言葉遣いは慇懃(いんぎん)さ失ってはいないが、知り合いの商人(あきんど)の家に逃げ込むことには気が乗らなかった。町人を巻き添えにするくらいならば父子で刺し違えるか、潔く自首すべきだと進言してこれまでも養父と諍(いさか)いを繰り返して来たのだった。
 格之助の生家は大塩家とは遠縁にあたる。実子の生まれなかった中斎が、祖母の甥になる同僚の与力西田八郎右衛門の次男だった格之助を養嗣に迎え、自分の隠居とひき替えの形で与力の職を継がしたのだった。生来温和な質であった格之助が、学問の師でもあった中斎の行動を正面切って非難したのは、潜伏先として養父が美吉屋を名指したときがはじめてだった。敗走の途中で大和路から二人が市中へ引き返すかどうか逡巡したときのことだ。
 養父を許せないと思ったのは、美吉屋とは以前より多少の縁故があったとは言え、主人の五郎兵衛は洗心洞の門弟でもなく、まして今度の決起には何の係りもなかったからだ。格之助の諌言(かんげん)に対し中斎は、探索方の目をくらますにはそのほうが好都合ではないかと言って、耳をかそうとしなかった。
 先月(二月)十九日の七ツ(午後四時)頃燃えさかる炎と黒煙の中を、避難する人々にまぎれ、逃亡を図った門弟や同志たちは、それぞれすでに悲惨な末路を迎えているのに違いないのだ。とにかく今こうして無事で生きているのは自分たち父子だけだろうと思えば、巻き添えにしかねない者は、一人として増やすべきではないというのが格之助の偽りのない気持だった。
「おまえの繰り言はもう聞き飽(あ)いたわ」
中斎の罵声が不意に格之助の背中に突き刺さった。離れ座敷にひとつ灯っている行灯の明かりが黄色くしぼんでいるのが見える。
「今に見ておれ。食うや食わずの小前百姓や飢えた下下(しもじも)が、われらの決起に目覚めて立ち上がろうとしておる。わしの耳 にはその閧(とき)の声が聞こえるのだ。格之助、眼ん玉の曇りを拭ってな、目を大きく見開くのだっ」
 それまでのわずかの辛抱だ、中斎はこう言い切ると、身を起こし、直立の姿勢をとった。
「あの者たちが立ち上がった暁には権柄に酔い痴れた姦吏や浮利を追う金持の奴輩も少しは反省しよう」
 腰に手をあてて座敷にうずくまっている闇の奥を見据えた、中斎は、
「わしが命ははじめから天意に捧げておる。この世に怖れる ものなどあるはずはない」
 それは独り言のようであったが、格之助の耳には羽毛をむしられた軍鶏(しゃも)のもの哀しい虚勢にひびいた。
 五郎兵衛の娘のかつがさっき差し入れてくれた夕飯と竹筒に仕込んだ味噌汁に腹の皮が緩んで来たらしく、格之助は瞼が重たくなった。立ち上がっていた養父は、いつの間にやらふたたび畳の上に横寝しており、ごうごうという鼾(いびき)が八畳間の離れに満ちて来た。
 離れの外は朧月夜なのだろうか。庭に出て心ゆくまで美しい星空を見上げてみたいものだと、格之助は思った。今夜は、養父の鼾でとても眠ることは出来ないだろう。



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