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時に大阪町奉行の与力に大塩平八郎といふものが居つた。この男は王
陽明の学通じて、中斎と号してゐたが、剛果峻厳、治獄の才に長じてゐ
たので、奉行高井山城守実徳は、平八郎を重く用ゐてゐた。実徳がよい
/\になつて退くと共に、平八郎も従つて退いた後、諸生を集めて書を
講じてゐたが、心中一向面白くない。政府の方策を更らに振はないで、
うゑ きよう/\
饑に泣くやら乱に叫ぶやら、人心恟々たるを見て、此処で一番一仕事を
してやらうと、自ら駿河の今川義元の子孫だと云つて、其の子捨之助を
元服せしめて、ひそかに今川弓太郎と名乗らせ、蔵書万巻を売り払つて
窮民を救ひ、且つ告げて曰く、天満橋天神橋のあたりに火災があつたら、
どうか急に来て呉れと、それから木砲、銅砲四個を四個を作つて、天照
大神、湯王、武王、徳川家康の旗を作つて、政府の腐敗、政治の私曲を
数へ立て、下々のために、姦官を誅するといふ檄を四方に飛ばして、頃
は天保八年二月十九日、門弟同心徒党数十人と共に、火を放つて大阪を
焼いて、紛擾に乗じて事を起さうとした。
ところが与党平山助次郎が、グラリと寝返りを打つて、此の事を奉行
そこ
に密告した。乃で旧奉行跡部山城守良弼、職を新奉行堀伊賀守利堅に継
てした
がうとする時であつた。吃驚仰天一大事と、両人して部下を指揮して、
し ま
大塩与党の面々を、片つ端から踏ん縛つた。平八郎は之れを聞き、失敗
つた残念、口惜しやと歯ぎしりしても仕方がない。十九日の早暁に、自
や け ぱち かんぱち
ら其の家を焼いて、どうせかうなりや自暴のやん八、日焼けの旱八だと、
火を四方八方に散らし、天神橋を焼き落し、三井、鴻池などの金の番人
共を砲撃して、窮民百姓を駆り集めて、それ大阪城をを攻め取れと、大
阪城に向はふとしたが、途中で喰ひとめられると、其の大方は喰ふに困
たま びつくり
つて、背に腹は代られぬ烏合の勢、何條以て堪るべき、忽ち吃驚敗走、
よたう
平八郎以下与徒は、痛い腹を切るものもあれば、木の枝にブラン/\の
洟垂れ野郎と出かける野郎と出かけるもあり、又は焼け死ぬるのもあつ
た。平八郎は武庫郡甲山に拠つて、もう一度は天下を揺動かしてやらう
こぶん
と地震の乾分のやうな考へを持つてゐたが、遂ひに敗れて了つた。
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斯くして平八郎は、大味噌ならで大塩をつけたが、やけになつて焼か
れた家は、一万五千戸に達したのである。
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跡部は東
堀は西の
町奉行、
堀は着任
したばかり
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