Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.8.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


天保の飢饉と大塩平八郎

その2

町田柳塘・樋口麗陽

『滑稽日本史』晴光館 1920 所収

◇禁転載◇

九五 天保の飢饉と大塩平八郎(2)管理人註
   

 時に大阪町奉行の与力に大塩平八郎といふものが居つた。この男は王 陽明の学通じて、中斎と号してゐたが、剛果峻厳、治獄の才に長じてゐ たので、奉行高井山城守実徳は、平八郎を重く用ゐてゐた。実徳がよい /\になつて退くと共に、平八郎も従つて退いた後、諸生を集めて書を 講じてゐたが、心中一向面白くない。政府の方策を更らに振はないで、 うゑ              きよう/\ 饑に泣くやら乱に叫ぶやら、人心恟々たるを見て、此処で一番一仕事を してやらうと、自ら駿河の今川義元の子孫だと云つて、其の子捨之助を 元服せしめて、ひそかに今川弓太郎と名乗らせ、蔵書万巻を売り払つて 窮民を救ひ、且つ告げて曰く、天満橋天神橋のあたりに火災があつたら、 どうか急に来て呉れと、それから木砲、銅砲四個を四個を作つて、天照 大神、湯王、武王、徳川家康の旗を作つて、政府の腐敗、政治の私曲を 数へ立て、下々のために、姦官を誅するといふ檄を四方に飛ばして、頃 は天保八年二月十九日、門弟同心徒党数十人と共に、火を放つて大阪を 焼いて、紛擾に乗じて事を起さうとした。  ところが与党平山助次郎が、グラリと寝返りを打つて、此の事を奉行       そこ に密告した。乃で旧奉行跡部山城守良弼、職を新奉行堀伊賀守利堅に継                         てした がうとする時であつた。吃驚仰天一大事と、両人して部下を指揮して、                                し ま 大塩与党の面々を、片つ端から踏ん縛つた。平八郎は之れを聞き、失敗 つた残念、口惜しやと歯ぎしりしても仕方がない。十九日の早暁に、自                   や け      ぱち         かんぱち ら其の家を焼いて、どうせかうなりや自暴のやん八、日焼けの旱八だと、 火を四方八方に散らし、天神橋を焼き落し、三井、鴻池などの金の番人 共を砲撃して、窮民百姓を駆り集めて、それ大阪城をを攻め取れと、大 阪城に向はふとしたが、途中で喰ひとめられると、其の大方は喰ふに困                     たま           びつくり つて、背に腹は代られぬ烏合の勢、何條以て堪るべき、忽ち吃驚敗走、      よたう 平八郎以下与徒は、痛い腹を切るものもあれば、木の枝にブラン/\の 洟垂れ野郎と出かける野郎と出かけるもあり、又は焼け死ぬるのもあつ た。平八郎は武庫郡甲山に拠つて、もう一度は天下を揺動かしてやらう     こぶん と地震の乾分のやうな考へを持つてゐたが、遂ひに敗れて了つた。                          ・ ・  斯くして平八郎は、大味噌ならで大塩をつけたが、やけになつて焼か れた家は、一万五千戸に達したのである。
































跡部は東
堀は西の
町奉行、
堀は着任
したばかり
 


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