Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.3/2008.4.17修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

松村介石

『人物論』警醒社書店 1895 より

◇禁転載◇

適宜読点を入れ。改行しています。


東洋の豪傑と西洋の豪傑とを対照するに、左の相違あるものゝ如し

東洋の豪傑ハ多く聖賢の書を読み、克己修養練達の道に志し、或ハ陽明の工夫を学び、或ハ禅機の悟を尋ね、頗る自制の徳に富む、斯故にどことなく、威あつて重く、弧を彎て発せざ るの趣きあり、然れども、其弊を云ハゞ、寧 ろ天真を欠く、自然を欠く、而して到底修養の道に重きを負ふて、平然たらぬところ多きが如し。

西洋の豪傑とても、自修(セルフカルチユアル)を為さゞるにあらず、然れども其発するところを視るに、天真自然にして頗る愛すべきもの多し、ラサレの如き、カルマルクの如き、而して当今英国の社会に雷鳴を轟しつゝあるジョン・バルンスの如きもの是也、東洋の豪傑とても思い切て怒らざるにあらず、然れども其怒る間にも自(おのづか)ら淫せざらんことを勉むるの傾きあり、西洋の豪傑に至てハ、其発するや余情を残さす、怒るときハ己れを忘れて怒り、喜ぶときハ己れを忘れて喜ぶ、所謂る喜怒色に願ハれずとは、東洋の豪傑が標語とするところなれども、西洋の豪傑に至りてハ、恰も赤子の如きもの多し、而して自制克己の痕鮮、

余輩ハ東洋の豪傑を貶するものにあらず、又敢て西洋の豪傑を賞するものにあらず、何れも一長一短あるを云へるのみ、又強ち西洋東洋の別のかくあるものなりとは云ふものにあらず、唯だその大体より少しく趣を異にするものあるを云ハんとするのみ、

大塩平八郎ハ其の何れに属すべきか、余れ思ふに、大塩平八郎ハ身ハ東洋の豪傑なれども、寧ろ西洋の豪傑に類す、其激して怒るときハ前後左右を打ち忘れて、身ハ己に傍若無人の境に在り、平八郎一日矢部駿河守と談じ、言論国事に及ぶ、平八郎即ち慷慨悲憤、禁ずる事能ハず、膳に在る金頭(かながしら)を喰ひつゝありしが、之を裁する余裕を得ず、憤怒と共に之を頭(かしら)よりり尽せりといふ、

彼れ又一日弓奉行近藤某の宴に会す、近藤ハかねて大塩を喜バざるものなり、此に於てか半バゝ彼を軽侮せんと欲し、半バゝ彼れが胆力を試みんと欲し、鼈を魚藍に盛り、平八郎の前に出して曰く、子を煩ハす、請ふ之を宰せよと、平八郎即ち小刀を抜き、甲肉をも頭足をも弁せず、其儘之を寸断し、直に之を鍋中に投じ、片甲をも遺さず喫したりと云ふ、

或人曰く、平八郎ハ狂人に類すと、然れ共保羅がエルサレムの階壇に立つの時ノツクスが密室に叫ぶ時パトリックヘンリーが北米の空に動く時、誰かその狂人に類せずと云ふものあらんや、余れ今日の人士が視るに、彼等ハ余り智巧に失す、叫ぶべき時に会ふも、先後を顧みて得叫ばず、動くべき時に会ふも、緩急を計りて得動かず、成敗を顧み、機変を覗ひ、而して赤誠を其間に消磨せしめつゝあるもの、比々皆是れなり、

吾人ハ暴虎憑河の挙を為す事を勧むるものにあらず、然れども至誠の激するところハ、往々人をして成敗を忘れしむるものあつて存す、吉田松陰が同志を率ひて、間部下総守を京都に斬らんと欲したるが如きハ、暴挙に過ぎず、一人間部を斬るとも何の益あらんや、成敗時機を計るときハ、静かに黙して天下の大策を運らすに在るのみ、然れども彼れは義憤の余り、前後を顧みるの余暇なかりし、直に斬て天下に殉へんと欲するの至誠ありしのみ、又何ぞ咎むるを要んや、

大塩平八郎が暴挙に於けるも、亦た此類なり、人ハ曰く、大塩ハ犬死したるなり、所謂る無謀の師を与したるものゝみ、木砲を放て鉄城に向ふ、其敗れんや必せり、何ぞ児戯に類するの甚しきやと、其れ然るか然らざるか、是れ大塩の問ふところにあらず、瞻挙ぐれバ糧食ハ累々として倉庫に充ち、視下せバ餓縦横道路に斃る、彼れを望み此れを眺めて、義憤燃へ、愛腸烹へ、乃ち去て家財を散じ、家具を売り、悉く之を饑餓者に給し、直に戟を持て天誅を凶暴者の上に試む、是れ亦た至誠止むを得ざるの順序にして、成敗を其間に挾むべきものにあらざるなり、

若夫れ大塩平八郎をして、自由の天地に生れしめなバ、或ハラサンとなりて、万国社会党の牛耳を執り、大に為すところあらしむべし、若く又カール、マルクとなり、以て文筆上の大感化を与ふるの地位に立たしむべし、然れども当時の天地は之を許さざりし、腸裂けんと欲すれども、口云ふこと能ハず、気燃ゆれども手足自由ならず、独り悲しむ耳目に触るゝものハ、貧民り餓斃、悪吏の横行、見ざんと欲して、見ざる能はず、聞かざらんと欲して聞かざる能ハず、遂に己を忘れて此 の義憤義挙に及ぶ、嗚呼豈其れ止むを得んや、

平八郎も亦た人なり、新年に会ふて新衣を着し、羹餅を食ふて味濃なりと云ふ、此時に当りてハ、四方を拝し四海の太平を謡ハんと欲したるべし、然れども忽ち城中の細民を思へば、坐して温飽を私する能ハず、嗟嘆天に愧づるの心切ならざるを得ざりし、

平八郎ハ風物を愛したる人なり、神仙を慕ふたるの人なりし、然れども一たび人情界(ヒユーマニチイー)を思ひ来れバ、則ち長江に向ふて城塵を洗ハざるの恨に堪へざりし、

嗟呼当今何ぞ思ひ切て、事を為すものに乏しきや、硬骨の男子、忽ち軟化し去る、之を詰れば即ち曰く、機未だ熟せず、時猶早し、須らく時変を待つべきなりと、吾人ハ其見の老熟に服す、然れども天下の事ハ必ずしも老熟的の計策に由て成るものにあらず、視よや大塩平八郎ハ事に敗れたり、然れども維新革命の大精神を鼓舞したるものハ、彼れ豈平八郎の力ににあらずや、

吉田松陰ハ疎狂に失して捕へられ、遂に一剣の下に斬られたり、然れども後進を率励したるものハ、松陰にあらずや、事は一時の成敗を以て論ずべからず、カル、マルクハ我事敗ると嗟嘆して死せり、然れども其死ハ即ち英国社会をして彼れに同情を表せしむるの因縁となれり、ラサレハ即ち失望して予れは政治(ポリチック)の事に倦み疲れたり、我業遂に成るべきにあらずと詠嘆し、愚かにも一婦人の為めに其身を殺ろせり、然れども社会党の中興ハ、其功を彼れの肩に帰するにあらずや、

余等ハ深謀遠慮、誠内に満ちて、威外に発するの豪傑を愛す、而して暴虎憑河の士を愛せず、然れども至誠内に欠け、勇気外に乏しく、機に由り変を覗ふて、小智細策を弄するの俗士を愛せざるなり、而して若夫れ撰ぶところを云ハしめなバ、吾人ハ前後緩急を顧みて、因循事を為す弱士よりハ、寧ろ成敗利鈍を顧みず、思ひ切て其身を致すの誡士を愛す、予れ此に於てか、大塩平八郎に同情を表するや切なるを覚ふ、


石崎東国『大塩平八郎伝』 その63


『人物論』目次/「大塩中斎の学を論ず」(1)

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