Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.11.11

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩後素と伊勢文人」

三村清三郎 (竹清 1876−1950)

『本之話』岡書院 1930 収録

◇禁転載◇

貴答書拝見仕候時気逆冷台候万福奉恭祝候陳細々御教諭之趣如瞻晤候殊ニ御紹介申候御佩刀御心ニ協超然之雄篇御投示数回咀嚼仕候不堪赧愧之至君子守身之御寸助ニ相成大悦仕候
○刮目之御序ニ逐々御刪定浄書も可成思召ニ付畦紙可差上旨是又承知仕候御多忙之御中夫是御労勉気之毒奉存候任命三枚さし上候御入手宜奉希候至論抄之方茂逐々御改潤之趣御序に御さし越可被下候
○□□堂上巻一冊ハ写字出来御出府迄呈度と奉存候写字之人ニ乏敷是而已困り入候原本可差上候処至論校合ニ入用無余義手元ニさし置不申居候ては難叶何れ遅々なから御約束之通一冊ツゝ成とも写次第差出可申候間左様御承知可被下候
○御出府之御日月はいつ頃ニ相成候や先頃御噂ニてハ東都出火等有之□(節)ハ例六七月頃に相成候趣弥其通ニ相成候や又は来月弥御出立ニ被為在候哉御序ニ御聞せ可被下候写字の心得に相成候先は当用而已貴答如此御座候已上

  四月二十ニ日     大塩平八郎

   斎藤徳蔵様


 御侃刀とあるは兼元にて此事は藤堂藩儒川村竹坡宛の手紙にも見ゆ、斎藤徳蔵は拙堂なり、予が知れる津の人奥氏の父なる人は竹坡と兄弟の由、大塩は参宮の序に川村氏の依水園に宿りたるが、深夜庭下駄をはき、庭中をする事度々なりと、奥氏其父より聞きしとて語られたり。右の手紙書物に関係もあれぱ記す、当時藤堂藩学にては、石川竹酷ツ学にて、拙堂竹坡及び平松楽斎は儒員なり、大塩は拙堂以下の人には交りあれど、竹高ノは縁りなく、其手紙に御督学石川先生などゝ記せる由なれど、竹高ヘ大塩を嫌ひし如くにて、楽斎にも詩を以て諷せし事あり、仮装陸王面眩人蕕混蘭などゝも言はれたり、大塩失脚して伊賀へ走りしなども、何か藤堂藩に取入りたき意はありしならんか。


三村清三郎編「後素手簡」その13


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