三田村鳶魚 『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収
◇禁転載◇
北山が
穀帛(こくはく)荒年貴若、
長児叫凍小啼飢、
豪華時廃一朝騰、
多少窮民免散離
といふ詩を門人知友に示して義賑を計画した、門下の富人中野森井の二家が其の事を担当、一合を一握にした飯を持たせて、八方へ手を分けて施行する、それも外聞を憚つて誰のする救恤か知れないやうにする筈、特(こと)に此の際に義名を得るやうでは、報天報国の素志
に乖(たが)ふと堅く約束した、
愈々其の決行は二十一日に万端の準備を済せ、二十二日からといふ迄に渉(はこ)んだ。処へ生憎暴発の報
を伝へたので、北山は天を仰いで大息して、事態斯(こゝ)に至つては義賑を罷めるより外に仕方がないと云つた、門人知友が我々の持参した金子は、姑(しばら)く先生の御手許に置かれて、鎮定後の御分別を願ひたいと云ふと、北山がイヤそれは往けない、既に暴発した以上は有司の事で、我々処士の事ではないと云つて、断然計画を棄
てゝ了つたといふ。
北山は学者であるから是が至当であらう、北山は其の時、深く民衆が秩序を乱すの風習を醸(かも)すことを憂ひた様子であつた、我等も其処になると胸が痛い。暴発した以上は民衆に荷担したくない、けれども暴発してさへ有司が感悟しないとすれば、我等の憂患は百年の憂患である。政治は陛下のことである。決して功名富貴を獲る所以でないことを知つた者が、局に当らない限りは、我等の憂患は絶えない。
此処で期米市場論を書く積りであつたが、別に米の定値段と共に考究することにして、今は米価妄進が騒動を促成するとばかり思つては違ふことを云ふだけに変更した。
「大塩の乱関係論文集」目次