Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.6.20

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「未遂既遂の米騒動」

その13

三田村鳶魚

『お江戸の話』雄山閣出版 1924 所収

◇禁転載◇


エマーソン的な暴動

 シユツと云へばパツと云ふとは米国の諺ださうな、それが大いに報酬論的だと思ふ。

天明七年五月二十日の夜、赤坂で米屋が二十三軒壊された時に、最も猛烈な襲撃を受けた油商丸屋又兵衛は、四五年前から千代田城の御入用油をことごとく運上に差出して、江戸中の灯油問屋の惣元締となつて、段々占売をした末に、六年八月品切れと称して売止をした。代用の魚油も払底になつて、五里四方の江戸を闇黒(あんこく)にした奴である。

当夜赤坂の火消屋敷から人数を出して、暴動を鎮めに掛ると、往来の者が火消屋敷の同勢の提燈を奪つて消して了つたので、民衆は意のまゝに丸屋を残暴した。

千住の伊勢屋長兵衛は去年大水の時に、持米を日本提の上に出し、舂(うす)をも其処に置いて、被害民に搗かせた丈を与へた、此の家は今度の暴動に何の防備もしてなかつたが、去年人助けをした家だ、壊すな\/と云つて、些少(すこし)の被害だになかつた。

内神田の津軽屋三右衛門(狩谷掖斎の家)は津軽家の足軽百五十人、久世家の足軽百人、其の上に町同心をも頼んで置いたから、大闘争が店の前で始つた、百三十人を捕縛し、即死が二人もある始末、此の費用を計算すれば打壊されたのと幾割安いだらうか。

斯ういふ訳のものであるのに、幕閣は御先手頭十人に命じて、若 し手に余り候へば斬捨に致しても宜しいと云つた、双刀を帯した武士が空手の民衆に対して、手に余るとは怪しからぬ言葉である。第一に取り締るべき奸商の処置さへも出来ず、自分等の失政、しかも民怨を買ひながら、暴発を見て中心に慚愧しない、謹慎戒懼しない、却つて武器を以て威嚇する、民衆を不逞ならしむる所以 は爰にある。

我等は民間で民本主義などを唱へるのは、子供が子供を大切にせよと、父母に迫るやうなものだと思ふ、それは不幸不順の奴輩だと信ずる、歴世の詔勅の 中に、民を大御宝と宜(のべ)らせ賜へることは、載藉の上に昭々として見えて居る、皇祖皇宗の御事業は、全く其処に在る次第と拝戴して居るのに、臣子の分際を以て陛下の宏謨を憚らないとは何たる不心得であらう。


「未遂既遂の米騒動」目次/その12/その14

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ