Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.26

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その13

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


怜悧の鉢合せ

 平八郎の暴発は一朝一夕のことでなく、久しい計画であるといふは請取れない、東町奉行(跡部山城守)に遺恨があつたといふのは打ち消し難い、乃ち私怨の為めの暴発に相違ない、その私怨は何か、

『兼而東御奉行跡部様へ川崎御蔵御開米施行可被成旨申上候処聞入無之、其上西与力へ何角御談合も有之哉を恨み、此度西御奉行御初入、与力町御巡見にて、跡部様御案内之時、与力町にて打捨可申考へ之由申候』(茶屋貞次書状)平八が養子格之助を以て再三救恤の議を進言して顧みられなかつた、与力が町奉行の下問もないのに、自分の意見を申立てるのは僭越な事で、肯定するのに困難な事実ではあるが、平八が吉見九郎右衛門に、先役(大久保讃岐守)の奉行へは、編輯の書物を差出した所、挨拶として衣類等を贈られ、御用筋の儀も同役を以てお尋ねを豪り、当方も遺慮なく心底を打ち明け、甚だ愉快であつたと話した口気(くちぶり)から考へて、非常の場合、黙止し難いと下問も待たずに進言したらしい、

高井山城守、曾根日向守、戸塚備前守、大久保讃岐守と代々の所属長官から、人材扱いをされ時々に諮問される、組違いの西町奉行矢部駿河守までが近寄せて賞美したので、自ら任ずる所の大なる平八は、竊に町奉行の顧問のやうな気がして居たらう。

其処へ『只今迄は与力衆へ何角御任せ之処、跡部様は御任せなく、尤大塩氏先年先規を替へ、与力不宜者を改め、何角定め置候処、其定め御用なく……」(茶屋貞次書状)といふ模様であるから、玉を抱いて罪あるは中人とても或は脱れ難い、跡部は、何を小癪な属吏の分際で長官を差置いた建議沙汰と、聴くべき話も耳に入れない。

一方では事理の至極、嫌だと云へない事柄をば時機を測つて提出して、跡部を抑える積り、進言が聴かれない、そこで泣寝入りをしては毫も権威がない、鴻池や三井へ談じて出金させ、美事に一分の義賑を決行しやうと考へた、これも平生の声望を恃んで、俺が云へば彼等は承引すると独断したであらう、

鴻池三井等の方では、別人でもない大塩様の話、始末に困つたから跡部へ内談したであらう、斯うなれば暴発の順序は明白であるが、跡部に救恤の建議をした事と、鴻池三井への金談とは、肯定にも否定にも証拠にすべき資料がない、

何れにしても『だあらう』競べである。とは云へ跡部に対して私怨のあつたのは、誰からも認められて居る、その私怨の解択を、明細にしないで置くか、置かないかといふ迄のこと、大体は動かない。

それに最初の計画でも、跡部を狙撃するのであつたし、爾後も東照宮の社殿を焼いて、跡部を誘い出す策を執つたのを見ても、深く怨んだのが知れる。

更に矢部駿河守の評語は、反覆玩味する価値がある。暗に平八が建議したのを模索し得られる、『跡部様も発明之御奉行様、与力隠居大塩も中々高名之人、何れ発明同趣之論と被存候事』「(茶屋貞次書状)機転の利いた言ではないが、私怨と云ふのも怜悧の競争、ヱライ\/の鉢合せから起つたことである。

その時は大阪のみならず、江戸も凶荒に苦しんだ。イヤ日本全国が飢に泣いた、名を倫(ぬす)むの好機会、私怨を隠して公憤を粧(よそほ)ふ。偽物贋品は何時か露顕するものだよ。


相蘇一弘「大塩の乱と大阪天満宮
大坂町奉行一覧(大塩平八郎関係)


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