Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.5

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大塩の乱関係論文集目次


「天満水滸伝」

その10

三田村鳶魚

『芝居のうらおもて』玄文社 1920 所収

◇禁転載◇


天保の米価 (2)

『右御奉行様(跡部山城守)米穀高き事、何角御高配にて、誠に御公儀様御免買に参申候米にても決て売不申候由、御触有之候儀誠に厳敷』(「茶屋貞次書状」)、これ十二月五日の達をいふので、跡部が在米維持に尽力したのが知れる、売れば利益のあるのを売らせない、これは随分と骨の折れる仕事である。それを平八が、江戸廻米には尽力するが、京都の廻米には世話を焼かない、と云つて責める、前年作柄が五畿内は四歩五厘、関八州は三歩乃至四歩、奥州は二歩八厘、羽州は四歩であるから、江戸を救ふに急なるは咎むべきでない、幕吏の弱点に乗じて、天子の御座所たる京郡と迄いつて酪な難詰を加へた。

檄文の中にも、女謁の盛んなるを責め、賄賂の頻りなるを責めたのは、如何にも時弊に中つた論であるが、其の匡正は在阪の幕吏を殄滅(てんめつ)して行はれることであらうか、畢竟彼はいたずらに大言壮語するに過まい。

『此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱忠の謀反に類し候 と申者も、是非有之道理に候得共、我等一同心中に天下国家を簒奪いたし候慾念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る処は、湯、武、漢高祖、明太祖、民を弔、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若し疑しく覚候はゞ、我等之所業終候処を爾等眼を開て看 』と檄文の末に書いてあるが、あれだけの規模で、江戸の幕府が顛覆するであらうか。いかに眼(まなこ)を開いて見ても、討幕の計画とは請取れぬ。高井山城守に頼んで立身の路を探した、其の腹で弔民誅君の大業が演出せられるだらうか、検非違使になり損じた将門が、王位を窺(きゆ)する者と見られた例もあるけれども、それは貞盛等の讒口によつて、交通不便な時代の遠地の出来事を、昔々大昔の知恵のないお公卿さんが買ひ被つたのである。モウ天保時代にはその手は喰はぬ。平八はさうした希望があつたにしても十目十指。事情は明白になつている。鈴木白藤がこの檄文の末段を評して、「劉裕を引たるは誤ならん、劉裕は宋大祖にて簒奪とは云べけれど、朱忠と同じくは引難し、簒奪を以て云ば、曹孟徳、司馬仲達、蕭道威、蕭衍高、歓宇文、泰陳覇、先李淵、趙匡胤皆一流也、将門も明智も弑逆の人と同じく引くも疑べし、将門は明成祖、更始劉盆子の類也、是も当らず、もし西人にて謂はゞ、赤眉、青、張角、劉黒闥、安禄山、陳友諒、徐寿輝、及台湾の朱氏、林爽文、荘大田等を引べし、此人詩の下手なるを以て、歴史学に闇き人ならん、陽明学に精しきことは、詩の拙なると同日の談にあらず、と云つた。

この評論も怪しくないでもないが、平八が持ち出した和漢の人物は、孰(いづ)れも不適当に相違ない。これで経義を羽翼すべき知識の匱乏(きばふ)を証するなどゝ云ふよりも、一体檄文の意旨が透らぬ、寧ろ窮民に殉ずるのだと云へば明快であるのに、それを云はないから、結果が妙な事になつて了つた。今日の人間ならば無論気が付く。官僚の賤劣なのを知つて、民衆に媚びるのが卑陋なのを知らないと笑はれる迄も、爰では窮民に殉ずると、必ず明言する。

与力は今日の警部ほどのものだが、それでも治者の側に立つ以上は、民衆とは分限が違う、珠に治者被治者について、今日とは理解が違つて居た、救民とは云ふが、殉民とは決して云へぬ。それは宜しいとして、平八は唯だ我が癇癪玉の破裂を見よとばかりの意気込で、実は自分の所存さえ決着しては居ないのだから、文章が透徹しないのも当然である。それは平山助次郎に計画の委細を問ひ詰められて、云ふこともあらうに、燕雀何ぞ鴻鵠の志を知らんと遣るに至つては、お話はない、彼に暴挙を結末する予定のなかつたのは明(あきらか)に知れる。


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