Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.11.30

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理学史』(抄)その1T

三浦藤作 中興館 1943

◇禁転載◇

第三篇 近世  第四章 徳川時代の諸学派
  第二 陽明学派
   第七節 中斎門下の陽明学者(2)
管理人註
  

 林 良斎 名は久中、字は子虚、良斎は其の号である。又別に自明軒とも 号した。讃岐国多度津の人、文化五年(1808)に生れた。其の祖先は世々藩 の家老であつたから、彼も初めから、彼も初めは藩主に仕へたが、多病にし て奉仕に耐へず、其の職を辞して、堀江の弘浜の原に私塾を開き、弘浜書院 と名づけ、多くの子弟に陽明学を教授し、嘉永二年(1849)に歿した。生前 に親しく交つたのは吉村秋陽・春日潜菴・池田草菴等である。著書にはたゞ 一巻の「自明軒文鈔」が遺つて居るのみである。彼が春日潜菴に与へたる手 紙の一節に、「聖人の聖人たる所以のもの、無我なるのみ。而して吾人の独 知一点、天機の自然、人力得て与からず、則ちもと無我なり、其の我あるも の、乃ち意欲のみ、今意をして消せしめんと欲し、其の本無の天を復せんと 欲するは他なし。其の独りを慎むにあるのみ、書を読み、義を求むること、 亦廃すべかずと雖も、苟くも独の以てこれに主たるなくんば、則ち玩物喪志 たらざるもの幾んど希なり。」と云ひ、吉村秋陽に与へたる書中にも、「聖 人の学、無我を以て的となし、慎独を以て功となす。」と言つて居る。其の 思想の一端を窺ふに足るものである。

   
 


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