Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.25

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大塩の乱関係論文集目次


「宇津木静区と九霞楼」

その1

森 繁夫

『人物百談』三宅書店 1943 より

◇禁転載◇


(上)

 天保八年二月、大阪市中を騒擾の巷と化せしめた所謂大塩乱は、之を単なる思想問題としても、尚且つ義挙と云ひ、快挙と云ひ、壮挙と云ひ、或は又暴挙と云ひ、愚挙と云ひ、妄挙と云ひ、各評者の意見を異にするところであるが、とにもかくにも、あれだけの大芝居が其人を得ずして、さう易々と打てるものでないのは勿論、この大舞台の幕が開くまでに、見物の眼の届かない楽屋内に、喜悲種々の事柄は多くあつた、其挿話の一として閑却すべからざるは宇津本静区の最期、という重要なる一齣である。

 静区は、文化六年己巳七月を以て、彦根城郭内に生れた、宇津木家譜(北村寿四郎氏示教)に拠れば、父は久純といひ、宇津木弥平太久徴の後を承けて、同家八代の主となり、通称兵庫幼名雄三郎、字徳卿、昆岳と号し、退隠して図書と云ひ、宝暦十一年六月十八日出生、文政九年八月四日、六十六歳を以て歿した、家は三千五百石を領する家老職として、稽古館の頭取を兼ね、文化二年事に坐して退隠した、平生好学詩に巧みに、六松園詩集の刊行せられたるがあり、その跋文は、弟小野田為典の筆に成つてゐる。

為典、字舜卿赤松園と号し、同じく井伊家に仕ヘ、三千石を領した、頼山陽、為典のために簡斎記を書き謝金百両を得て、流石に大藩の太夫也と賞讃したなどの逸話がある、近江人物誌が、久純を単に彦根藩の儒士と誤記したのも其学名に囚はれた故であらう、久純二十五歳の時、嫡男泰交出生、通称下総といひ、九代を以て立つた、

次に四十九歳の時出生したのが、すなはち静区で、母は唯伝寺の女、三男を儒林の名流岡本黄石とし、其五十一歳所生で、静区には二歳の弟である、かく列記し来れば一統一門悉く水平線以上に在る人のみで、彼の将門必有将、相門必有相の所以あるところであらう。因に近江人物誌其他が、静区を下総の二子なりとせるは誤である。


「宇津木静区と九霞楼」目次/その2

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