その2
◇禁転載◇
静区には雅俗種々の名がある、家譜に拠れば、名は竣、字東c、静区と号し、通称は俵二、初友三郎、辰丸、矩之丞とある、これに洩れたるものには、岡田穆の撰したる、宇津木静区先生伝に、初名靖、字共甫とあり、大日本人名辞書には宇津木靖道として、通称憲之丞、一に兵太に作る、とあり、大塩平八郎伝中には矩之充とある、また事実文編の、大塩平八郎叛乱記事附録には、宇都木敬治又敬次とあるが、これは架空の人物なりといひ、或は静区の仮名なりとの説がある、静区の書に箱書付せるものに、『靖通』とあるものを見たが、未だ其出所を知らぬ、次手ながら、この名の下につく『通』については、よく間違が起り易い、それはたとへば此場合ならば、『名靖、通称俵二』とあるのが趣縄、『名靖通、称俵二』とかう転訛するのである。
筆者が現実に観たる文書中、自筆及印章を以てせるものに、静斎、春堂の二号あり、後段鶴洲上人の記に平共甫とせるより見れば、姓は平氏なりし歟、又こゝに筆跡を写真して示せるものは、不息居士と自ら冠し、且つ別に不息と署名せる短冊が、この文書に附随してある。
宇津木静区先生伝の一節に拠れば
静区幼にして、出て越前一向僧某の義子となり、好んで野乗を読み、其英雄戦争の段に至る毎に、意気慷慨、眠食倶に忘る、後に詩を学び、試みに円機活法の題を用ひて賦するに、一箇月にして皆之を成し、稍儒書を読んで会心するところあり、年十七慨然として、丈夫士太夫の家に生れ、自ら激昂して以て一世に馳騁する能はず、碌碌浮屠氏に終らむやと、遂に辞し、去て京師に寓す、貧困甚しく、傭書自ら給し、冬日身に重衣無く、時に日を併て食す、恰その頃、頼山陽、中島棕陰文名京師に喧しく、すなわち往て之に学ぶ、甞テ陸象山全集を読み、其自立之説に感じ、儒者当に此の如くなるべしと、これより更に精を凝らし思ひを罩めて、学ぶこと年有り、
会ま大塩平八郎、姚江之説を大阪に唱ふるに当り、往て心理を論じ、頗る其説に服し、竟に弟子の礼を執るに至れり、大塩氏平生高く自ら標置して人に許す所無かりしも、独り静区に対しては、朋友を以て待ち、敢て弟子視せず、数月にして去つて四方に遊ばんとするに際し、大塩氏贈るに名刀一口と金拾両とを以てす、蓋し深く所望ありといふ、遂に長崎に寓し、生徒に教授し生徒常に六七十人、穆(本伝の著者)亦贄を執て其後に従ふ、居ること八箇月、其親に帰省し、穆従ふ、復大阪を経て大塩氏に寓し、明年大塩氏乱を作すの時、其禍に死す(原漢文以下同じ)
云々とある、此の大塩入門の年月は正確に判明せざるも、大塩の交友中に、静区の兄宇津木泰交の名を、見出すことに於て、之を静区に因するものとすれば相当に久しい間柄と見るべく、一般には天保五年入門とあるが、その幼にして僧となつたといふのが、文化十一年六歳の時で還俗は天保二年二十三歳であり、京師の放浪に次で大塩入門とあるから、まづ大体その頃であつたらうと推考する、果して天保五年とすれば、静区二十六歳にして、翌六年四月伊予に遊んだ実蹟があるから、伝中の『数月将去游四方』といふのに稍々該常し、同年九月に長崎に到つたものと見える、伝中『居八月。帰省其親』とあるに徴し、天保七年四月帰省のことが想像されるが、長崎古今学芸書画展覧にも、只単に『天保中来テ教授ス』とのみで之を詳にしない。
かくて、静区二十九歳を教へた天保八年二月十九日、大塩に諌争の末、殺害されたのであるが、一般には、帰省二箇月にして、七年六月再び洗心洞塾に寄宿し、当日厄難に遭つた、とあり、一般には、九州旅行を了へて、八年二月十七日の夕刻大阪安治川へ着、とある、前者とすれば、あれほどの大企画を、九箇月も同宿しながら、之に関知しなかつたといふ迂闊さも、両者間の関係に於て信ぜられず、後者の、前々日着阪とある方が自然らしい、伝中にも『復経大阪寓于大塩氏。明年大塩氏作乱。卒死其禍。』とのみで、その寄宿の時期に就て言及されてゐな
いのは遺憾であるが、この挙を前日即ち十八日に、初めて大塩から聴いたことは碓実である。
かく所伝種々の異説があるが、静区に就ては、その最も親炙した岡田穆の、上記宇津木静区先生伝の記述を、先づ第一に信頼せねばならぬ。穆、字清風、通称良之進、後に恒庵といひ、篁所又大可山人と号した、性竹を愛し、屋を修行吾蘆又小緑天と称し、長崎西築町の医師岡田道玄の子として生れ、静区崎陽に来游の際之に従学した、時に天保六年十六歳であつた、静区亡きの後、野田笛浦に経史を学び、又薬信院多紀臣庭に就て医術を受け、詩文画を能くし、典
籍に博通し、支那に游んで滬呉日記の著がある、文政三年に出生、明治三十六年二月十九日年八十四を以て逝いた、其死は、師静区歿して六十六年、而かもまざまざと師の横死を目撃し、遺恨遺る瀬なかつたその忌日、同じ二月十九日であつたとは、如何にも奇しき因縁といふべく定めて当日を偲びつゝ、感慨深きうちに瞑目したことであらう。
「大塩の乱関係論文集」目次