Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.4

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大塩の乱関係論文集目次


「宇津木静区と九霞楼」

その2

森 繁夫

『人物百談』三宅書店 1943 より

◇禁転載◇


 静区には雅俗種々の名がある、家譜に拠れば、名は、字東c、静区と号し、通称は俵二、初友三郎、辰丸、矩之丞とある、これに洩れたるものには、岡田穆の撰したる、宇津木静区先生伝に、初名、字共甫とあり、大日本人名辞書には宇津木靖道として、通称憲之丞、一に兵太に作る、とあり、大塩平八郎伝中には矩之充とある、また事実文編の、大塩平八郎叛乱記事附録には、宇都木敬治敬次とあるが、これは架空の人物なりといひ、或は静区の仮名なりとの説がある、静区の書に箱書付せるものに、『靖通』とあるものを見たが、未だ其出所を知らぬ、次手ながら、この名の下につく『通』については、よく間違が起り易い、それはたとへば此場合ならば、『名靖、通称俵二』とあるのが趣縄、『名靖通、称俵二』とかう転訛するのである。

筆者が現実に観たる文書中、自筆及印章を以てせるものに、静斎、春堂の二号あり、後段鶴洲上人の記に平共甫とせるより見れば、姓は平氏なりし歟、又こゝに筆跡を写真して示せるものは、不息居士と自ら冠し、且つ別に不息と署名せる短冊が、この文書に附随してある。

【写真 宇津木静区筆跡 略】

 宇津木静区先生伝の一節に拠れば

云々とある、此の大塩入門の年月は正確に判明せざるも、大塩の交友中に、静区の兄宇津木泰交の名を、見出すことに於て、之を静区に因するものとすれば相当に久しい間柄と見るべく、一般には天保五年入門とあるが、その幼にして僧となつたといふのが、文化十一年六歳の時で還俗は天保二年二十三歳であり、京師の放浪に次で大塩入門とあるから、まづ大体その頃であつたらうと推考する、果して天保五年とすれば、静区二十六歳にして、翌六年四月伊予に遊んだ実蹟があるから、伝中の『数月将去游四方』といふのに稍々該常し、同年九月に長崎に到つたものと見える、伝中『居八月。帰省其親』とあるに徴し、天保七年四月帰省のことが想像されるが、長崎古今学芸書画展覧にも、只単に『天保中来テ教授ス』とのみで之を詳にしない。

かくて、静区二十九歳を教へた天保八年二月十九日、大塩に諌争の末、殺害されたのであるが、一般には、帰省二箇月にして、七年六月再び洗心洞塾に寄宿し、当日厄難に遭つた、とあり、一般には、九州旅行を了へて、八年二月十七日の夕刻大阪安治川へ着、とある、前者とすれば、あれほどの大企画を、九箇月も同宿しながら、之に関知しなかつたといふ迂闊さも、両者間の関係に於て信ぜられず、後者の、前々日着阪とある方が自然らしい、伝中にも『復経大阪寓于大塩氏。明年大塩氏作乱。卒死其禍。』とのみで、その寄宿の時期に就て言及されてゐな いのは遺憾であるが、この挙を前日即ち十八日に、初めて大塩から聴いたことは碓実である。

 かく所伝種々の異説があるが、静区に就ては、その最も親炙した岡田穆の、上記宇津木静区先生伝の記述を、先づ第一に信頼せねばならぬ。、字清風、通称良之進、後に恒庵といひ、篁所大可山人と号した、性竹を愛し、屋を修行吾蘆又小緑天と称し、長崎西築町の医師岡田道玄の子として生れ、静区崎陽に来游の際之に従学した、時に天保六年十六歳であつた、静区亡きの後、野田笛浦に経史を学び、又薬信院多紀臣庭に就て医術を受け、詩文画を能くし、典 籍に博通し、支那に游んで滬呉日記の著がある、文政三年に出生、明治三十六年二月十九日年八十四を以て逝いた、其死は、師静区歿して六十六年、而かもまざまざと師の横死を目撃し、遺恨遺る瀬なかつたその忌日、同じ二月十九日であつたとは、如何にも奇しき因縁といふべく定めて当日を偲びつゝ、感慨深きうちに瞑目したことであらう。


石崎東国『大塩平八郎伝』その79
『事実文編』「大塩平八郎叛乱記事附録


『人物論』目次/その1/その3

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