◇禁転載◇
『尚古』一月号に森繁夫氏の記述された『宇津木静区と九霞楼』日と題する一篇を拝見した、其続篇は未だ拝見せざるが故に、私と同じ様な事を書かれるか分らねど、私も静区の事に就て聞知する処あり、昭和二年十一月拙著『ながらのさくら』(非売品絶版)に一寸記した事があるが、同書は出版部数極めて少く、広く世に知られて居らぬを遺憾とし、本誌を通じて其要点を知つてもらひたいと思ふ。私の親友に森弘平氏といふ人があつた、氏は彦根町の出身で元大津病院長、退官後多年大津市坂本町に住み医を業とした、氏の父君は初め大林権之進と称したが、大塩平八郎の乱に当り意外の冤罪を被り、三ケ年間幽閉され、其後森弘右衛門と改名するに至つた、其由来に付、明治三十四年七月二十八日森弘平氏は左の如く語る。
予の父大林権之進は中川縁郎の門人で大塩平八郎と眤懇であつた、大塩が彦根に来て我宅に泊り、父と共に伊吹山に登りし事あり、又頼山陽、梁川星厳、中嶋棕隠、貫名菘翁等とも交つた、
曾て大塩に対し、家老宇津木大炊*1の弟宇津木静区を平八郎に介せし事あり、乱起るに及び、大炊の命を受け、静区をして大塩に党するなからしめんと大阪に抵(到?)る、到れば静区は既に大塩を諫死した、
然るに父権之進は却つて大塩に党するの嫌疑を受けて捕へられ、幽閉せらるゝ事二年、然るに静区の遺書、岡田恒庵の手によつて彦根に達し、書中大林は大塩の乱に関係なきを証する事が出来て、漸く赦され彦根に帰り、家老木俣土佐守(今は男爵)に預けとなり、其長屋に蟄居せしめらるゝ事更に一年、剰へ家禄を没収せらるゝに至つた、
岡田は往年静区の小伝を編し父に斧正を請ふとて漢文の書面に其小伝を添へて来た、其書は明治十五年静区の弟岡本黄石に依つて、『浪迹小藁』と題し、遺稿と併せ出版されて居るが、書面の来た時はマダ公にされずにあつた、書面には大林権之進から其子森弘平を長崎に遣はし岡田の許で医術を修得させたいといふに対しての回答が主である。
弘平氏更に語を進めて曰く、
扨我家は闕所となり、三年後に放免となつたので、父は大林といふ大と林とを一つにして中へ一本棒を入れ森と改姓し名前をかへた、即ち森弘右衛門である、
其後彦根町外青波村大字芹川に『おさと』といふ名あつて実なき一家を構へ、林檎畑の中に住んだ、之は士族といふものはヒヨツとすると一家を減亡さるゝ虞あるを以て『おさと』といふ名前を拵へて自由に働ける様にしたといひました、明治の御世にとなつて、其幽霊の『おさと』のやり場に窮した、
父は後藩立弘道館の教官となり、悠々晩年を送り、明治十二年四月二日歿した、享年七十歳、金亀城東黄檗宗広慈菴に其碑がある、予の幼時、木俣のような立派な人が年頭に来られるから、どうゆう訳かと聞たら父はいふ、己れを預り幽閉した為めに弐拾五俵を増されたから木俣は己れに恩があるといて笑ひましたと、
私は明治三十八年四月十一日大東義徹君の葬に会した時、森氏に伴はれてへ広慈菴の墓に詣でた、境内桜ならぬはなく、其桜樹の下に『森漁山先生の碑』といふものが建てられてあつた、
静区の墓は犬上郡大滝村楢崎の高源寺にある。明治二十一年静区の碑建立の時、高宮町の漢学者故小林正策氏も発起人の一人であつたが、其小林氏は私に語つて曰く、当時岡田恒庵は態々長崎から参会した、最初は中々元気であつたが、其除幕式が済んで楽々園に帰つてから蔚々として非常にふさぎ込んだので、病気かと問へば、病気でない、段々聞けば、折角立派に成功したけれど、其碑文中重大な間違ひがあり、之では静区先生に相済まぬといふのであつた、
依て岡田氏に訂正を請、更に碑文を直したので満足されたと。
前記の話をした森弘平氏は明治三十九年九月廿五日歿す、享年五十一歳、墓は三井寺山内法明院にある、又小林正策氏も其後に歿した。越へて明治四十二年交図らずも、長崎県東彼杵郡崎尾村に隠遁せる大儒故楠本謙三先生と文書を通ずるの機会を得た、之は故中沼了三先生や、故西川耕蔵氏の事蹟調査に関し内田周平氏の紹介に依つたのである、
其後楠本先生は突如左の如き静区の筆蹟に添ゆるに岡田恒庵筆張南軒の詩とを私に寄せられ
た。
慙愧推尊【言漫】称師、為惶教学毎支離、
神朝只恃持区々悃、諸友中心亦自知、
在家巳識有厳君、推道何曾外主恩、
忠孝元来無二致、道中却合節文存、
知足由来是坦途、還将保節作良図、
耕桑辛苦吾常話、臨別慇懃更一諭、
臨別似林碩巣 平 静 斎
楠本先生来書の要に曰く、宇津木の筆蹟は世に稀であるが、素と岡田の珍襲せしものにかゝる、予は岡田より贈られ保管して来た、然るに自分も高齢となり、余命幾干もなからん、之を近江の人に保管してもらひたい、而して之を託するは足下に如くなしと思ふ、永く襲蔵を望むと、私は謹んで命を拝し之を受領したのである、此事を聞き、或人は高価を以て右二点の譲与を請はれたけれど、断じて売却すべきものでないと絶謝した、併し自分一代は大切に保管すべきも、個人の家は栄枯盛衰あり、子孫が永久によく之を襲蔵すべきや否やと心配しつゝあつた、偶々大正二年滋賀県女子師範学校々友会は大礼記念として参考室を設け、郷土の前賢遺墨を蒐集せらるゝに会ふた、乃ち楠本先生寄託の精神を完ふせんが為、遂に同会に寄附した、尚大正十年十一月十二日、大阪陽明学会主幹石崎東圃(国)氏外数氏に依りて、静区展墓の挙があつた、其紀行文は同年十二月五日発行の『陽明主義』に委しく掲載されてある、墓石の文字は左の如くなりといふ。
天保八年酉年 |
因に記す、森繁夫氏文中『大塩入門の年月は正確に判明せざるも、大塩の交友中に、静区の兄宇津木泰交の名を、見出すことに於て、之を静区に因するものとすれば相当に久しい間柄と見るべく』云々とあり、今森弘平氏の談話中、家老宇津木大炊の弟静区を父が平八郎に介せし事云々に依りて大塩への紹介者は大林権之進たる事は明かである、而も私は入門の年月及帰省の年月等を聞かざりしを遺憾とする、又静区の遺書で大林等に無関係の事明瞭となり放免したといへど、二ケ年間も大阪に幽閉され、更に木俣の長屋に一年間蟄居を命ぜられ、尚且家禄を没収さるゝなどしは如何にも惨酷な処置で無罪放免ではない、全く罪入扱いである、森弘平氏は狷介不羈の性行で或時彦根城内で展覧会のあつた休憩所に木俣男を見付け、足下の男爵は、我家の御蔭だと思へと面 罵されたことがあつた、多数の人々は其直情に驚いたが、斯かる惨酷の処置に対しては大林の子としてふくむ処あるも当然の次第である、森弘平氏の末亡人春波江氏は目下京都市坊城八條下ル東寺町に居在されて居る。
「大塩の乱関係論文集」目次