Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.6

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大塩の乱関係論文集目次


「宇津木静区と大林権之進」

西川太治郎 (1864-1942)

『人物百談』三宅書店 1943 より

◇禁転載◇


『尚古』一月号に森繁夫氏の記述された『宇津木静区と九霞楼』日と題する一篇を拝見した、其続篇は未だ拝見せざるが故に、私と同じ様な事を書かれるか分らねど、私も静区の事に就て聞知する処あり、昭和二年十一月拙著『ながらのさくら』(非売品絶版)に一寸記した事があるが、同書は出版部数極めて少く、広く世に知られて居らぬを遺憾とし、本誌を通じて其要点を知つてもらひたいと思ふ。私の親友に森弘平氏といふ人があつた、氏は彦根町の出身で元大津病院長、退官後多年大津市坂本町に住み医を業とした、氏の父君は初め大林権之進と称したが、大塩平八郎の乱に当り意外の冤罪を被り、三ケ年間幽閉され、其後森弘右衛門と改名するに至つた、其由来に付、明治三十四年七月二十八日森弘平氏は左の如く語る。

 弘平氏更に語を進めて曰く、

前記の話をした森弘平氏は明治三十九年九月廿五日歿す、享年五十一歳、墓は三井寺山内法明院にある、又小林正策氏も其後に歿した。越へて明治四十二年交図らずも、長崎県東彼杵郡崎尾村に隠遁せる大儒故楠本謙三先生と文書を通ずるの機会を得た、之は故中沼了三先生や、故西川耕蔵氏の事蹟調査に関し内田周平氏の紹介に依つたのである、

其後楠本先生は突如左の如き静区の筆蹟に添ゆるに岡田恒庵筆張南軒の詩とを私に寄せられ た。

 楠本先生来書の要に曰く、宇津木の筆蹟は世に稀であるが、素と岡田の珍襲せしものにかゝる、予は岡田より贈られ保管して来た、然るに自分も高齢となり、余命幾干もなからん、之を近江の人に保管してもらひたい、而して之を託するは足下に如くなしと思ふ、永く襲蔵を望むと、私は謹んで命を拝し之を受領したのである、此事を聞き、或人は高価を以て右二点の譲与を請はれたけれど、断じて売却すべきものでないと絶謝した、併し自分一代は大切に保管すべきも、個人の家は栄枯盛衰あり、子孫が永久によく之を襲蔵すべきや否やと心配しつゝあつた、偶々大正二年滋賀県女子師範学校々友会は大礼記念として参考室を設け、郷土の前賢遺墨を蒐集せらるゝに会ふた、乃ち楠本先生寄託の精神を完ふせんが為、遂に同会に寄附した、尚大正十年十一月十二日、大阪陽明学会主幹石崎東圃(国)氏外数氏に依りて、静区展墓の挙があつた、其紀行文は同年十二月五日発行の『陽明主義』に委しく掲載されてある、墓石の文字は左の如くなりといふ。

因に記す、森繁夫氏文中『大塩入門の年月は正確に判明せざるも、大塩の交友中に、静区の兄宇津木泰交の名を、見出すことに於て、之を静区に因するものとすれば相当に久しい間柄と見るべく』云々とあり、今森弘平氏の談話中、家老宇津木大炊の弟静区を父が平八郎に介せし事云々に依りて大塩への紹介者は大林権之進たる事は明かである、而も私は入門の年月及帰省の年月等を聞かざりしを遺憾とする、又静区の遺書で大林等に無関係の事明瞭となり放免したといへど、二ケ年間も大阪に幽閉され、更に木俣の長屋に一年間蟄居を命ぜられ、尚且家禄を没収さるゝなどしは如何にも惨酷な処置で無罪放免ではない、全く罪入扱いである、森弘平氏は狷介不羈の性行で或時彦根城内で展覧会のあつた休憩所に木俣男を見付け、足下の男爵は、我家の御蔭だと思へと面 罵されたことがあつた、多数の人々は其直情に驚いたが、斯かる惨酷の処置に対しては大林の子としてふくむ処あるも当然の次第である、森弘平氏の末亡人春波江氏は目下京都市坊城八條下ル東寺町に居在されて居る。


管理人註
*1 静区の兄は宇津木上総


「宇津木静区と九霞楼」目次/その10

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